2024/5/18

赤面症、引っ込み思案…女将を大成させた「お寺修行」の気づき

フリーランスライター
京都の高級料亭・高台寺和久傳(京都市東山区)は1982年に京都市内に進出すると、2店舗目、3店舗目と拡大し、料亭の味を「おもたせ」として持ち帰れるようお菓子やお弁当の販売も始めました。

その後も蕎麦と料理の店「五-いつつ」、朝食営業もする「丹 tan」をオープンさせるなど多様な店づくりへの挑戦を続けています。

高台寺和久傳の女将(おかみ)であり、株式会社「高台寺和久傳」(京都市東山区)の代表も務める桑村祐子さんが和久傳の2店舗目、室町和久傳の開業を任されたのは20代半ばのころ。

実は「女将になるのが絶対に嫌だった」という桑村さんは、逃げるようにお寺で2年間、修行をした経験がありました。“逃げ腰”だった桑村さんは、どのように経営者として成長していったのでしょうか──。(第2回/全3回)
INDEX
  • 女将は「絶対に嫌なランキングのトップ」
  • “拠り所”を求めてお寺で修行
  • 「本当の贅沢とは」と考えた
  • 「あんたには無理やな」と言われて
桑村祐子(くわむら・ゆうこ) 1964年、京都府峰山町(現・京丹後市)生まれ。大学卒業後に大徳寺の塔頭に住み込んで修行した後、1989年に高台寺和久傳に入社。2007年に高台寺和久傳の女将、2012年に代表取締役に就任。2024年に食品の製造販売をする(株)紫野和久傳と、料亭の高台寺和久傳など数店舗を運営する(株)高台寺和久傳、両社の代表取締役に就任。

女将は「絶対に嫌なランキングのトップ」

2020年に創業150周年を迎えた和久傳のルーツは、京都市の中心部から100キロほど北西にある丹後・峰山町(現・京丹後市)の料理旅館にあります。
地域は江戸時代からちりめん産業で栄えていましたが、時代とともに衰退。活路を見いだすべく、料亭として京都市内に進出したのが1982年のことでした。
桑村さんは当時18歳。大学に通いながら、帰宅したら着物に着替えてお運びさんをしたり、洗い物の手伝いをしたり、と家業に関わってきました。ファストフード店の時給が450円のころでしたが、「400円でいいやろ、って言われて」と笑います。
当時、女将として店を切り盛りしていた母親の綾さんは、娘から見ても「人間的にチャーミングな人」。センスが良くて、バイタリティーがあって、いかにも「女将」という雰囲気。
それに対して、桑村さんは物心がついたときには赤面症で、人前に出るのが苦手。授業中、先生から指名されると「立ち上がったまま真っ赤になって頭が真っ白になる......というような感じでした」と言います。
桑村「裏方なら喜んでするんですけど、お客さまとお話をするというのは……。しかも『女将さん』というのは絶対に嫌なランキングのトップ。お寺、相撲部屋、旅館には絶対にお嫁に行きたくないと思っていました」
綾さんの期待に応えようとがんばっても、「100分の1もできない」。それでも、家業を継ぐことは当たり前だと考えていました。「なんとか和久傳が潰れてくれないかな、と思っていました」と笑って振り返ります。
ふと気づいたら大学の卒業も間近になり、「このままいったら既定路線。どこに行けば引き戻されにくいか」と考えます。そして、行き着いたのが“お寺”でした。
京都有数の禅宗寺院である大徳寺(京都市北区)の塔頭に、住み込みで修行させてもらうことにしたのです。
桑村さんとしては「出家するぐらいのつもり」でしたが、両親は「どうせ音を上げて帰ってくるだろう」と思っていたのでしょうか。「行っといで」と快く送り出してくれました。

“拠り所”を求めてお寺で修行

桑村さんが逃げる先にお寺を選んだのは、子ども時代に経験した地場産業の傾きが影響していました。
桑村「子どものころはわかっていなかったけど、栄えていたものが駄目になっていったということが後からだんだんわかるようになってきました。時が経っても風化しない真理というか、変わらないもの、拠り所を求めている気持ちがありました」
大徳寺に入り、夏は午前5時半ごろ、冬は午前6時半ごろに起床する生活になりました。まず掃除をして、その後はお茶をたてていただきます。
お経をあげ、お粥を食べ、畑仕事をしたり、「作務」と呼ばれる労務をしたり。寝るのは午前0時から0時半ごろ。若かった桑村さんは日中も常に眠かったそうです。
庭にいる亀にエサをやるという仕事もありました。エサは「6Pチーズ」です。
桑村「半信半疑でチーズを持って立っていると、上がってきはるんですよ。でも、ゆっくり上がってくるから、私はイライラして貧乏ゆすりして(笑)」
お寺での生活は時間の流れが違いました。和尚さんから墨をするように言われると、半日ぐらいすり続けることになります。「やめたい、やめたい」と思いながらすっていると、「ゆっくりすったらいいからな」と声をかけられました。

「本当の贅沢とは」と考えた

修行僧の雲水さんたちは寡黙ですが、季節の変化に敏感でした。桑村さんが気づいていなくても「ユスラウメが咲きましたね」と目を留めます。
そんな日々を過ごしていくうちに、桑村さんは自身の変化を感じました。まず変わったのは体質。以前は口内炎がたくさんできていたのに、体調が改善しました。
高台寺和久傳で手伝いをしていたときは、食事は5分で終わらせたり、立って食べたり。お客さんに合わせるため、不規則な生活を続けていました。
でも、お寺では前日から井戸水をくんだバケツに昆布を入れて出汁をとり、自分で育てた野菜を食べます。「本当の贅沢」とはこういうことなのではないか、と感じるようになりました。
さらに、お寺での生活は「パフォーマンスがいらない」のが心地よかったそうです。桑村さんが好きな裏方仕事に加えて、最小限で気持ちの良い挨拶や、心を込めた「ありがとうございます」といった言葉が大切にされる日々。
思えば、京丹後から京都市中心部に出てきてカルチャーショックを受け、劣等感にさいなまれていたのだ、と気づきました。
桑村「ボロボロだったのに、逃げていった先が『洗ってくれる』というか『戻してくれる』場所だったのです。だから、ずっといられるな、と思ってしまって。親としては『泣いて出てくると思ってたのに、ぜんぜん帰ってこないぞ』という話になったんですよ」

「あんたには無理やな」と言われて

大徳寺に住み込んで2年が経ったころ、世の中はバブルの真っただ中でした。和久傳では高台寺に続く2店舗目の「室町和久傳」を開く話が持ち上がり、桑村さんは綾さんから「やってみないか」と声をかけられます。
室町和久傳のカウンター(提供:和久傳)
でも、「やっと私の人生が私の選択で始まると思っていた矢先。その手には乗れないと思って」断りました。母と娘の間にはしばらく冷たい空気が流れますが、あるとき綾さんが捨てぜりふのようにひと言、「そうやな、あんたには無理やな」と言いました。
桑村「なぜかムカッとして『やる』と言ってしまった。いまなら『はい、無理です』って言うんですけど(笑)。まだ子どもだったんですよ、母の作戦だったのかもしれないですけどね。それで“娑婆(しゃば)”に戻ることになってしまうんです」
やると決めたからには、口を出さないでほしいと伝えました。開店資金には、1億5千万円の借金が必要でした。新店舗の開店を任されるということは、その責任を負うということです。
桑村「本当は、サザエさんみたいな家庭をつくるというのが夢だったんです。その憧れのサザエさんを目指すために借金をして、完済したらお嫁に行こうと心に決めました」
バブル期だけに当時の金利は9%近く。さらに「室町和久傳」という名前にするなら「使用料を」と綾さんから言われ、「私も払わないと気が済まないわ」と了承しました。
「おかしいですよね」と笑いながら振り返りますが、毎月の返済額と使用料だけで150万円ほどで「初日からショート寸前」だったそうです。
桑村「伝票がいるということさえ、わからなかった。でも、雇用保険や給与の計算とか、支払いとか請求書を出すとか、とにかく自分でやってみないと気が済まない性分なんです。
母もそうなんですが、泳ぎ方を覚えてから飛び込むんじゃなくて、飛び込んでから溺れそうになりながら泳ぎ方を学ぶ。やり方がアホなだけなんやけども」
こうして、お寺での静かな日々から一転、忙しい生活が始まりました。もちろん高台寺和久傳で手伝いをしていたとはいえ、経営的な知識はありません。
クレジットカードが普及し始めたころでしたが、カード払いだと入金が1カ月ほど先。官公庁のお客さんからの支払いは1年後ということもありました。従業員に給料が払えず、「1日だけ待って」と頭を下げたこともあるそうです。
そんな時期を乗り切ることができたのは、丹後から京都市中心部に出てきて料亭を開いた母・綾さんの姿を見ていたからかもしれません。
いまでこそ有名料亭になりましたが、移転当初は京都でも和久傳のことを知る人は多くありませんでした。信頼もなく、仕入れを付けで買うことはできません。「昨日いただいたおカネで買いにいくしかなかった」と聞かされていた話が桑村さんの脳裏にあったそうです。
“逃げ腰”だった桑村さんの感性と、母から受け継いだDNAが、のちに事業的に大きな成功となったおもたせの店「紫野和久傳」など、“新たな料亭のカタチ”を生み出していったのです。
Vol.3に続く