連載第2回・元甲子園球児の逆襲
プロ野球選手という夢が見えて、迷い込んだトンネルの入り口
2015/5/25
京都成章高校時代から文武両道を両立させ、当時では規格外の「メジャーリーガー」という夢を掲げていた澤井芳信。1998年夏の甲子園決勝であの松坂大輔にノーヒットノーランを食らった男は現在、スポーツマネジメント会社「スポーツバックス」の代表取締役としてボストン・レッドソックスの上原浩治を「陰」から支えている。なぜ、アマチュア球界でスポットライトを浴びてきた澤井は裏方に回る決断を下したのか。常に前向きに生きる男の物語、第2話──。
第1話:松坂大輔に無安打無得点され、上原浩治の「陰」で生きる男
2014年、プロ野球ドラフト会議で指名された選手は育成枠を含めて104名。子どもの頃、「プロ野球選手になりたい」という夢を描いても、その夢を実現できる者はほんの一握りだ。高校、大学、社会人、独立リーグなど、さまざまなカテゴリーの選手が夢をかなえようと毎日、白球を追っている。
メジャーリーガーに憧れを抱きつつも、その手だてがわからず、まずは日本のプロ野球を目指すことにした澤井芳信だったが、その夢の入口が狭き門であることに変わりはなかった。
1999年、同志社大学に進学した澤井は大学3年時に関西学生野球リーグでショートのベストナインに選ばれる。
「大学のときも相変わらずメジャーリーグが好きで、当時、マリナーズだったイチロー選手のヒットの場面だけを自分で編集してビデオを作っていました(笑)。試合の前にその映像を繰り返し見てイメージトレーニングをするのが習慣でしたね」
ベストナインを獲得した直後に行われた野球部監督との個人面談で、「プロ野球のスカウトが注目しているようだ」と聞かされた。ほぼ同じ時期、ドラフト会議を扱った新聞記事の「来年のドラフト候補一覧」にも澤井の名前が挙がっていた。着実に夢に近づいている手応えがあった。
ところが4年生になり、極度の打撃不振に陥る。
自己欲が道の分かれ目に
澤井は大学に入学した直後、ある計画を立てていた。3年生までの間にゼミ以外の単位をすべて取り、大学4年は野球に集中しようと考えたのだ。どんなに練習で疲れていても講義を受け、レポートを提出し、卒業に必要な単位を取得した。
3年生までに単位を取りたかったのには理由があった。ドラフト指名にかかるためには4年生時の成績がモノを言うと考えたからだ。
「そうやって臨んだ4年のリーグ戦が、一番悪い成績でした。『これだけ野球に集中したのに、なんでやねん』って感じでしたよ、ハハハ。今思えば、プロへ行きたいという欲が強すぎたのかもしれません。自分の成績を、めっちゃ気にしていた気がします。試合の後も『今日は全然打てなかったなぁ』とか『打率がナンボやった』とか、そんなことばかり気にしていました。高校の時のように、『チームが勝つために自分は何をしたらいいんだろう』と考えて、ちゃんと試合に臨んでいたら結果は変わっていたのかもしれませんね」
結局4年生の秋、ドラフト会議で澤井の名が呼ばれることはなかった。
卒業後は関東の野球を経験してみたいという思いと、周囲の勧めもあって新日鐵君津(現:新日鐵住金かずさマジック)で野球を続けることになる。
新聞で知った、夢と現実
大学時代を振り返ってもらっている最中、「今だから言えるんですけど」と澤井が切り出した。
澤井が大学4年の時、シアトル・マリナーズが日本でトライアウトを実施した。澤井はそのトライアウトを大学の同級生からの電話で知る。
「新聞に掲載されていたみたいなんですよ。もうこれは行くしかないと思って、オカンに何とかお願いして千葉までの交通費を借りて受けにいきました。実はトライアウトを受けることは幼なじみ以外、誰にも言わなかったんです。だから身分も隠して行きました(笑)」
大学の名前がどこにも入っていない、真っ白いユニホームを用意してトライアウトに臨んだ。午前中に走塁とキャッチボールと打撃のテストを行い、そこで目に止まった選手が午後、行われる紅白戦に出場できる。澤井は午前の部で合格し、午後の紅白戦に出場した。しかし、メジャーのスカウトの目に止まることはできなかった。
「結果を聞いた時は、『そうか、だめだったか、もうこれで日本でプロを目指すしかないなぁ』という感じです」
社会人時代の違和感
松坂に敗れた夏の記憶をたどってもらった時も、大学4年で打撃不振に陥った話をする際も、澤井はどこか自分を達観していて、他人事のように楽しんでいる印象があった。トライアウトで合格できず、メジャーへの憧れに休止符を打った時も、すぐに気持ちを切り替えて次の目標に焦点を合わせている。そこには「夢がかなえられないかもしれない」というネガティブな思考や、悲壮感がない。
そんな澤井に、これまでの人生で挫折を味わったことがあるかと尋ねると、しばらく考えた後にこう答えた。
「社会人野球時代ですかね。ただ、もともと前向きな性格だと思うので、当時は自分では挫折だとは思っていませんでしたけど……。大学時代までずっとレギュラーで試合に出ていて、でも社会人に進んでからはあまり試合に出られなくなった。試合に出られないと、いろいろ考えるじゃないですか。何が悪いんだろう、自分のパフォーマンスをどうして出せなかったんだろうって、そんなふうに考え込むことが多かったです」
ベンチで試合を見たり、一塁コーチャーとして試合に参加する日々が続いた。なぜ試合に出られないのか。どうしたら試合に出られるのかと考えるうちに、知らず知らず自分を追い込んでいたのかもしれないと振り返る。
社会人2年目、ある試合で途中からサードに入った澤井のところにバントの打球が転がってきた。難しいゴロではなかった。いつものようにさばいて一塁に送球をしたつもりだったが、そのボールは一塁手が飛びついてもまったく届かないような大暴投になった。直後、選手交代を告げられ、ベンチに下げられた。
「社会人1年目の終盤あたりから、何かおかしいなという感覚はあったんです。きっかけは思い出せないんですけど。たとえば、一塁コーチャーをしていて他の選手の守備を見るじゃないですか。二塁手がセカンドゴロを捕って一塁に投げるのを見て『なんでああいう回転になるんやろう』って。『自分はああいうふうには投げられないな』って考え出す。そうするうちに、もう自分がどうやって送球していたのかわからなくなってしまうんです」
ボールを投げようとしても体が動かない。澤井はイップスと呼ばれるアスリートに多く見られる運動障害に陥っていた。(文中敬称略)
(取材・執筆:市川忍、撮影:福田俊介)
※本連載は毎週月曜日に掲載予定です。