連載第1回・元甲子園球児の逆襲
松坂大輔に無安打無得点され、上原浩治の「陰」で生きる男
2015/5/18
まばゆいスポットライトを浴びるトップアスリートを、自らの意思で「陰」から支えることに決めた元アスリートがいる。1998年夏の甲子園決勝に出場、同志社大学時代にはベストナインに輝き、プロの注目も集めた男はなぜ、あえて舞台裏に回る決断を下したのか。澤井芳信、34歳。トップアスリートの光と陰、栄冠と屈辱を自ら味わった末、裏方として支えていくことを選んだ男のストーリー──。
1998年、夏の甲子園大会決勝で松坂大輔(ソフトバンクホークス)にノーヒットノーランを喫した澤井芳信は現在、上原浩治(レッドソックス)の「陰」で生きている。アスリートが光であるなら、澤井はその光を際立たせるために尽力する陰の存在だ。
子どもの頃からプロ野球選手を目指し、高校球児の憧れでもある甲子園の土を踏んだ。同志社大学時代はベストナインを受賞。一時はプロのスカウトの目にも止まったアスリートである。しかし、そんな澤井は現在、スポーツマネジメント会社「スポーツバックス」を起業し、アスリートをサポートする側に回っている。
肩書は代表取締役だが、社員は澤井ただ一人。スポーツバックスに所属する上原、山本隆弘(バレーボール元日本代表)、萩原智子(競泳元日本代表)のマネジメントを一手に担っている。上原の自主トレーニングでは練習相手を務め、時には運転手にもなる。現場に出ればマネージャーとして額に汗して動き回る、完全なる裏方だ。
澤井に話を聞いた日の早朝、上原が出場するボストン・レッドソックスの試合があった。上原の登板を見届けた後、最初の仕事現場に向かったのだという。上原はこの日、トロント・ブルージェイズ戦にリリーフとして登板し、今シーズン4セーブ目を記録した。「抑えられたのでよかったです」と安堵(あんど)の表情を浮かべる。マネージャーとしての一面が垣間見えた。
ノーヒットノーランを食らった収穫
高校野球ファンでなくとも「松坂世代」という言葉を一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。松坂と同じ1980年に生まれ、松坂とともに高校野球界を沸かせた同級生の選手全員の総称だ。そんな呼び名が定着するほど、松坂は同じ時代に生まれた選手たちを代表するスーパースターだった。
その松坂に甲子園の決勝でノーヒットノーランを達成され、完敗したチームが京都の代表校、京都成章高校である。そのチームで主将を務めていたのが、澤井芳信だ。
夏の甲子園大会、しかも決勝戦という晴れ舞台で松坂にノーヒットノーランを達成されたことを、当時の澤井はどう感じていたのだろうか。
「今も昔も、屈辱だと思ったことは一度もないですね。試合終了の瞬間はちょっと泣きましたけれど、その後はチーム全員、けろっとしていて、僕も楽しかったという満足感や達成感しか残らなかったんですよ」
京都成章高校には失うものはなかったと語る。
「夏の大会の印象が強いと思いますが、実は同じ年の春の選抜大会にも僕らは出場しているんですよ。その時は初戦で岡山理科大学附属高校に2対18で負けたんです。大量失点ですよね。とにかく悔しかったです。そのせいもあって、僕ら3年生の目標は『もう一度、甲子園に出て、とにかく1勝して校歌を歌うこと』でした。甲子園を嫌な思い出だけで終わらせたくなかったんです」
松坂という怪物を要し、春夏連覇を期待される横浜高校に比べ、京都成章には何のプレッシャーもなかったと振り返る。
「決勝の前も、あの松坂と対戦できるんだというワクワク感しかありませんでした。僕らはズバ抜けて力のある選手がいないチーム。ただ、エースの古岡(基紀)はあの打線と戦うので、プレッシャーはあったでしょうね。でも自分はコツコツ練習して、初戦からチームワークで勝ち進んでいって、決勝という最高の舞台で稀代のエースと戦えた。そのうれしさのほうが大きかったです」
甲子園の敗戦は最高の名刺
京都成章は京都府内でも有名な進学校だ。澤井自身も京都成章の方針である「文武両道」に心惹かれ、進学を決めた。甲子園に初めて出場したのが1995年。野球の強豪校としての歴史はまだ浅かった。
野球部のルールは厳しかった。テストで赤点を取ると練習に参加できない。授業中に居眠りをした生徒も同じだ。試験前になると、朝の3時に目覚まし時計をセットして通学前に予習復習をした。往復3時間の通学時間も利用して勉強した。そうやって甲子園出場を目指してきた彼らにとっては、決勝まで進めたこと自体が夢のような出来事だった。
「今でもあの甲子園のことは言われますよ。野球好きな人はやはり多いですよね。僕のクライアントであるハギトモさん(萩原智子)について現場に行くと、野球好きな人が必ずいるんです。そうするとハギトモさんが僕のことを『甲子園の決勝で松坂投手と戦ったチームの……』と紹介してくれるんです。必ず『あの時の』って思い出していただけるので、ありがたいなと思いますね」
あっけらかんと笑った。
夢はメジャーリーガー
澤井が野球を始めたのは小学校3年生の時。7歳年上の兄の影響で地元の少年野球チームに入団した。当時の夢は「もちろんプロ野球選手」。中学に進学後は校内の軟式野球部に入部した。
京都成章高校に入学した直後、転機が訪れた。軽い気持ちで観た『ザ・エージェント』という映画の内容に心を奪われた。エージェントとして働く主人公がある日、会社の方針に疑問を抱き独立。苦労を重ねながらもエージェントとして成功を手にするストーリーだ。
「今思えば何がそんなに心に響いたのかわからないんですけれど、『こういう世界もあるんや』『かっこいいなぁ』と純粋にアメリカに憧れるようになったんです。それからですね、日本のプロ野球選手よりメジャーリーガーになりたいと思うようになったのは」
甲子園出場が決まるとベンチ入りする選手には、マスコミ各社からアンケート用紙が配られる。出場選手の名鑑を作成するためだ。生年月日や身長体重のほかに趣味などを書く欄もあるのだが、「憧れの野球選手は?」という質問に澤井は迷わず「オジー・スミス」と書いた。スミスは1980年から13年連続ゴールドグラブ賞に輝き、「史上最高のショート」とも言われる選手である。
「多分、その欄にメジャーリーガーの名前を書いたのなんて僕くらいじゃないですか」
当時すでに野茂英雄がロサンゼルス・ドジャースで活躍していたものの、今ほどメジャーに挑戦する日本人選手は多くなかった。アメリカに行きたいと思っても手だてが思いつかなかったと振り返る。
メジャーリーガーに憧れつつも、何をしたらメジャーリーガーになれるのかわからない。そこで、澤井は大学進学を選ぶことになる。(文中敬称略)
(取材・執筆:市川忍、撮影:福田俊介)
※本連載は毎週月曜日に掲載予定です。