たった一度の人生を変える勉強をしよう

【0時限目】もう「勉強」だけでは役に立たない

大切にすべきは、タテでもヨコでもない「ナナメの人間関係」

2015/3/27
暗記中心の「勉強」は、もはや役に立たない。では、かわりに何を学べばいいのか? 世の中のさまざまな問題を学習する「よのなか科」の生みの親である藤原和博氏が、中高生とその親のために書き下ろした新刊、『たった一度の人生を変える勉強をしよう』(朝日新聞出版)をNewsPicks上で毎日掲載します(第0章、1章を無料公開。第2章以降は有料となります)。

読み書きソロバンの「次」の力

これからの「成熟社会」に必要なあたらしい力とは、具体的にどんなものなのか。もう少し具体的に考えていこう。成長社会の時代に求められていたのは、1秒でも早く“正解”にたどりつくための「情報処理力」だった。たとえるならこれは、ジグソーパズルを完成させるときの力だ。何百というピースがバラバラになったジグソーパズル。そのパッケージには、「完成したらこうなるよ」という絵が描かれている。つまり最初から“正解”が与えられているわけだ。

そして、ピースの形状やそこに描かれた絵を頼りに、それぞれ適切な場所に配置していく。どのピースがどこに埋まるかはあらかじめ決められてるし、ひとつでも場所を間違えたら、パズルは完成しない。ジグソーパズルとは、与えられた情報(ピースの絵や形状)を素早く処理していく能力、すなわち「情報処理力」が問われる知的ゲームなんだよね。

一方、成熟社会に“正解”はない。

ジグソーパズルみたいな「完成したらこうなるよ」という“正解”もないまま、課題に取り組まなくてはいけない。たとえるならこれは、レゴブロックを組み立てるような力といえるだろう。

たとえばレゴブロックで犬をつくることになったとき、手持ちのブロックをどう組み合わせて、どんな犬をつくるのか。大きさはどれくらいで、犬種はどうするのか。柴犬なのか、ブルドッグなのか、それともダックスフントをつくるのか。すべては、つくり手のみんなに委ねられる。

100人の人がつくったら、100通りの犬ができあがるはずだ。こうやってレゴブロックを組み立てていくような力のことを、ぼくは「情報編集 力」と呼んでいるんだ。手持ちのブロック(情報)を組み合わせて、あたらしい答えを生み出していく力。誰かがつくった“正解”にたどりつくのではなく、手を使い、足を使い、頭をフル回転させて、自分だけの答えを「編集」していく力。

自分の持っている技術、知識、経験のすべてを組み合わせてつなげ、「編集」していく力。正解をめざす「情報処理力」とは、まったく違った力だ。

さて、ここでみんなは大きな問題に直面する。よのなかに“正解”が存在した時代には、その正解を教えてくれる「先生」がいました。学校の先生はもちろん、家庭では両親やおじいちゃん・おばあちゃん、さらには会社の上司までもが、先生としての役割を担ってきました。

そもそも先生って、「先に生まれた人」という意味の言葉なんだよね。先に生まれた人は、すでによのなかの“正解”を知っている。だからこそ、お父さんやお母さん、会社の上司たちも「先生」として、たくさんの“正解”を教えることができた。ここでの正解は、“常識”と言い換えてもいいかもしれません。

一方、正解の失われた「成熟社会」ではどうだろう? 先に生まれたってだけで、ちゃんと先生の役割を果たすことができるかな? 古い時代に“正解”だったことが、いまや“時代遅れの常識”だったりすることはないかな? そう。よのなかに“正解”がないということは、その正解を教えてくれる「先生」もいない、ということなんだ。

国語や数学、英語など、特定の教科を教えてくれる先生は、もちろんいます。お父さんやお母さんが社会常識を教えてくれたり、会社の上司がビジネスマナーを教えてくれることもあるでしょう。

だけど、そういう知識レベルの“正解”を超えた、生き方や働き方の“正解”を教えてくれる先生は、どこにもいません。これからみんなは、先生のいない授業に取り組まなければいけないわけです。

もちろんぼくも先生ではありませんので、ひとりの「先輩」だと思ってください。 つまり、文字通りの「先に生まれた人」ということだよね。

先生よりも「先輩」が大切な時代へ

ぼくは「先生」ではなく、ひとりの「先輩」にすぎない。じつは、このなんでもないひと言に、成熟社会を生き抜くための重要なキーワードが隠されているんです。いま、みんなの周りにはどんな大人がいるかな? 普段、どんな大人たちと顔を合わせて、どんな大人たちと言葉を交わして、コミュニケーションをとっているかな?

たぶん、真っ先に思い浮かぶ大人って、両親に学校の先生、部活の監督あたりじゃないかと思います。やっぱり、広い意味での「先生」が中心になるよね。親と子、教師と生徒、監督・コーチと選手。こうした大人たちとの関係は、基本的に「タテの関係」になる。上の立場にいる人と、その下の立場にいるきみ。教える人と、教えてもらうあなた。つまり、上下関係だ。

これに対して、友達との関係は「ヨコの関係」。どっちが偉いわけでもなく、対等な立場で付き合う、もっと気軽で、もっと親密な関係だ。でも、人間関係ってタテとヨコだけで十分なのかな? しかも“正解”を教えてくれる「先生」がいない成熟社会のなかで、誰からなにを学べばいいんだろう?

そこで、タテでもヨコでもなく、もうひとつ大切にしてほしい人間関係が「ナナメの関係」なんだ。みんなにとって、いちばん身近な「ナナメの関係」といえば、塾の先生かもしれないね。大人たちは意外と知らないんだけど、塾っておもしろいよね? 勉強そのものがおもしろいかどうかは、人によると思う。

でも、塾には独特の明るさや自由さがあるし、塾の先生に対しては、自分たちの味方みたいな、いい意味での先輩みたいなイメージがあるんじゃないかな。

これは、塾の先生とのあいだにタテの関係じゃない、「ナナメの関係」を結べているから。ナナメの「先輩」は、なにかの“正解”を教えてくれるわけではありません。彼ら・彼女らが教えてくれるのは、よのなかを生き抜くための“ヒント”だけ。自らの経験をベースに、親や学校の先生たちとはまったく違った角度からものごとに光を当て、あたらしい視点や考え方を示してくれます。

それに、みんなくらいの年齢になってくると、どうしても親や学校の先生に反発する気持ちが出てくるよね。これは、みんなが子どもから大人になる過程、または親を超えようとする過程で、どうしても出てしまうもの。その意味でも、反発する必要のないナナメの関係が大切なんです。

というわけで、ぼくのことを間違っても「先生」とは思わないでほしい。ぼくはタテの関係で上に立つ「先生」ではなく、あくまでもナナメの関係にいる、ひとりの「先輩」です。

※続きは明日掲載します。
 たった一度の_本とプロフ (1)