【超ヒット本】「ケーキの切れない非行少年」が教える、能力主義の欠点
コメント
注目のコメント
「今は多様性の時代だから、勉強ができなくたっていいじゃないか」と考える人もいるかもしれません。
能力主義とは別の価値観があってもいいというのはその通りですが、「能力が低くても良い」「勉強ができなくても構わない」というのはあくまで大人の理屈です。
ほんとその通りで、公立の学校はある程度の学力がついていないと朝から夕方までとにかく暇で、お客さんで、ただ座っているだけしかなくて。どれだけしんどいかと思いますよ。だからそういう子がときどきポロッと出す本音は、多様性が大切という大人たちを唸らせるほど、クラス全員の子が考え込むほど、正直で的を得ていることがあります。
その一言やしぐさに出会いたいがために、教員をやっているところもあるかも。ここでいう頑張れない人達をなんとかすることに対して意義を見いだせる通常の生活水準以上の人はどのくらいいるのでしょうか。私は小さい頃の友人知人にこの記事で言うところの人や、非行に走ってしまう人も何人か居て大人になるまで付き合いがあったので意味も意義も自分なりに分かるつもりです。
ただ周囲に普通以上の生活をしている同世代の付き合いしかなく、治安の良い地域で過ごしたり早くから私立の学校内でしか友人が居なかったような人にはこのような人達の勉強の辛さ、普通がどういうものか理解できない感覚はおそらくチェンソーマンのデンジみたいな漫画の中のキャラクターを見るようなものでしょう。
私のその手の知人友人は家に上げれば普通にお金を見つけると持って帰りますし、私はお年玉を盗まれて遊園地に行かれたこともあります。なんで付き合ってるのと思われるでしょうし、警察になんで届けないの?って思われるでしょうが、そんな話じゃないんです。だから恐らく分からない人は多いだろうなと思います。(ちなみにその知人の一人は高校くらいのとき私の家の窓の格子を外して中に入ろうとしていたところを私に発見されたこともあります。流石に見つかったら止めましたが)
私が提案できる一つの手段としては認知能力や一般道徳の教育を家庭環境や地域水準に左右されない方法は、全寮制の学校でそれなり厳しい規律のところを公国立で入れるようにすることかなと思います。家庭の差はいかんともしがたいですし、全寮制でも埋められないものはあると思っています。ただ居場所の選択肢を与えることはできる。そのように生きるしかないという選択肢のない人達なので世の中を恨む前に環境の選択肢を与える事が大事かなと感じて来ました。
私の日本が裕福であってほしい、富の差が有ったとしても豊かさは十分であってほしいと願う根源は自分の知っている人たちの危険や犯罪に巻き込まれるリスクを下げて幸せで不安の少ない生活をしてほしいからです。裕福層が募金をするのも根源はそういうことだと思います。自分の知り合いの知り合いや知り合いの住む地域が安全で豊かになってほしい。その範囲が狭いか広いかではないかと。具体的にはどうするのか、となると、おそらく義務教育段階から、発達度別に教育課程を分けているのがいいということになるでしょう。
義務教育の教育課程を途中から理解できなくなる日本国民は、相当な割合でいます。
現在では、特別支援学級と通常学級の2種類しかありません。
実際問題、この2種類のどちらにも合わない児童というのはいます。
3種類、できれば4種類の教育課程をつくった方が、よりきめ細かい対応ができるでしょう。
小学校6年生までに正数の四則演算ができるようになればいい、とかです。
教育にかける予算を相当増やす必要がありますが。
それか、小学校で留年を導入して、到達度次第で留年する、義務教育15年間で、小学校4年生までしか進めないということもありうる、ということにするか、ですが、おそらく日本社会に受け入れられないでしょう。
移民の国、米国では、脱落する児童はどんどん脱落していきます。
米国に限らず、世界のほとんどはそうですが。
15歳の時点でもみんな並んで一緒に卒業、とはいかないのも、また能力主義です。
能力さえあれば外国人でも国籍が取得できてどんどん成功していく、という社会なら、無理にきめ細かい対応をして脱落者が出ないように配慮しなくても、人材は足ります。
日本は、日本人だけで社会と経済を回そうとしてきたので、何とかできるだけ脱落者が出ないようにきめ細かく対応してきました。
能力のある人間を外国から導入するか、日本人児童をどうにかしてあの手この手で引き上げるか、ですが、根本的な問題は日本人児童の数自体がもういなくなることで、高校の政経や生物の教科書が理解できるとか、数学Ⅰは全部理解できる、程度の人材をこれまで通りの人数を確保したければ、外国から導入するしかないでしょう。