解読吉田調書 (1)

【第17回】解読「吉田調書」

「安全規制ガバナンス」の失敗

2015/3/18
吉田調書は、未曾有の国家危機の中で、危機対応にあたったひとりの人間が、どのような情報から、何を考え、どのような判断を下し、どう動いたかという危機対応の追体験を可能にしてくれる。この調書は、吉田昌郎の遺言である。私たちは、そのように受け止めて、彼の肉声に耳を澄ませ、そこに潜む真実をつかみだし、そこから引き出した教訓に学ばなくてはならない。本連載では民間事故調のワーキング・グループ有志メンバーが吉田調書を解読するとともに、それを踏まえて、民間事故調報告書で明らかにした事実と分析の検証を行う。

(テレビ会議の録画部分)

「ちょっと、いいですか、1Fさん。今、保安院から指示が来まして、保安院としては(中略)1F-1のようなこと、爆発が起こる可能性があると思っているので、例えば、ブローアウトパネルを開けるなどのような対策を考えることと、こういう指示が来ています」

「どうしようもないわけですよ。はっきり言えばですね。『こんな腐った指示ばかりしやがって』と、いまだにこのときのことはむかむかきますけれどもね。こんなのばかりですよ。ただ単に口で何々しろみたいな。ばか言えと」

「ラプチャーディスクを破けとか」

『保安院と出てくると、むかむかすることしか言っていないわけです』

「直というのはなくて」

「ないですね」

「保安院の出先というか、保安院の事務所が」

「このころはもういません。1人もいないです」(8月9日)

腰の引けた保安院

「このころはもういません。1人もいないです」の一言に万感の思いが込められている。事故が発生したとき、現場には8人の保安検査官がいた。そのうち4人がオフサイトセンターに行き、4人が免震重要棟に残った。

しかし、1号機爆発のあと、残った4人もオフサイトセンターに逃げていった。彼らを現場に戻せと指示したのは海江田経産相である。その指示を受けていったんは戻ったが、3号機が危機的になると彼らは再び、オフサイトセンターへと逃亡した。

「最初に武藤から電話があって、保安院さんが来るという話のときに、短期間で1回来られたのかもしれないんです。14日ごろにね。そんな記憶もあるんです。ちょこっといらっしゃった。オフサイトセンターが福島に引き揚げるとなったときに、みんな福島に引き揚げられて、結局16日、17日ぐらいまで、自衛隊や消防がぴゅっぴゅやっているときはいなかったような気がするんです」(8月8日)

政府の責任者たちは現場には「ちょこっといらっしゃった」だけで、風のように消えていった。吉田は「彼らは汚い」という最大級の侮蔑的な言葉を使って、保安院を批判している。直接のきっかけは、彼らの耐震基準に対する腰の引けた対応だった。

「耐震評価小委員会などをつくって、先生を並べて、電力に資料をつくらせて、報告して、そのあら探しをして、部分的にコメントが付いたところだけ何とかしろと、ここだけ解明しろとか、これだけです。要するに、保安院として基準を決めるとか、そういうことは絶対にしないです。あの人たちは責任を取らないですからね」(8月8日)

原子力安全・保安院は事故後、取り壊しとなり、多くの職員は原子力規制庁に移った。組織として消滅させられたため、保安院は自らの事故時の対応の是非を検証していない。それは、保安院と並ぶもう一つの原子力規制機関である原子力安全委員会についても言える。

原子力安全委員会に対しても吉田は容赦しない。吉田の矛先は班目春樹委員長に向かう。3月14日夕、班目が突然、吉田に電話をしてきたことについて吉田は次のように答えている。

「もうパニクっている。(中略)何だ、このおっさんはと思って、聞いていると、どうも班目先生らしいなと思って、はいはいという話をしていて、(中略)そうしたら、今はもう余裕がないから、早く水を突っ込め、突っ込めと言っているわけですよ。今、ベント操作しているんですけれどもという話をしたら、ベントなどをやっている余裕はないから、早く突っ込めと言っているんですよ」(8月9日)

班目はSR(主蒸気逃し)弁を一刻も早く開けて減圧し、注水するよう吉田を促していた。しかし、現場担当からはサプレッション・チャンバーの水温が100度を超えているため、蒸気が凝縮せずに、十分減圧できない可能性が指摘された。

一方、ベントの方も試みてみたものの、ベント弁が開かない、と吉田に報告が上がった。清水が割り込んできて、「班目先生の方式で行ってください」と社長命令を下すのはこのときである。吉田は班目を「パニクっている」と形容したが、班目の発言を聞いた円卓の班長の一人はそのような印象を受けなかったと私に語っている。

もし、班目が「パニクって」いたとしても、それは班目だけではなかっただろう。SR弁が開かないとの報告があったとき、200人近い緊対室はシーンとなった。その時に円卓を襲った悲壮感はほかならぬ吉田の証言でうかがい知ることができる。

それに、班目もまた支援体制のないまま、孤立していた。班目によれば、事故勃発後、急きょ、官邸に召し上げられたが、「相談する相手もいないし、いろんなハンドブックとかそういうものも全然ない。何も、身一つの状況で何か判断しなきゃいけないという状況」に置かれたのである(民間事故調ヒアリング)。

「安全神話」のとりこになった

保安院同様、原子力安全委員会も危機においてまともに機能しなかった。その根っこはやはり「安全神話」のとりこになったからである。安全確保の一義的な責任は電気事業者にあり、保安院は電気事業者を監督し、原子力安全委員会は安全規制の指針を作るという分業体制で臨んできたが、こうした体制自体が平時の安全規制を前提としたもので、過酷事故のような非常時においては、保安院、原子力安全委員会ともども十分な機能を果たすことができなかった。

緊急事態の発生は、事前の事故防止が不十分だったことを認めることになる。過酷事故対策は1992年、原子力安全委員会の決定を受けて資源エネルギー庁が電力会社に自主的取り組みを要請して以来、ほとんど見直されることはなかった。原子力安全委員会が指針をつくるアクシデント・マネジメント手順書は機械故障や誤操作など内的事象だけを対象とし、津波、地震、テロなどの外的事象は考慮に入れなかった。従って、保安院と電力会社は外的事象は「想定外」で済ませてきたのである。

そもそも、原子力安全委員会が策定する指針は、法的拘束力がなく、あくまで「指針」にとどまるため、それを実行するための手段や措置を持っていない。保安院と原子力安全委員会―それに文部科学省をつけ加えなければならない―の危機においての不甲斐なさを、吉田はじめ現場の担当者は痛いほど感じさせられた。

危機において、彼らは「腐った指示」しか出せなかった。それは、原子力安全規制ガバナンスの失敗を如実に物語っている。

※登場する人物の肩書きはすべて福島第一原発事故当時のものである(一部敬称略)。

※続きは明日掲載します。