解読吉田調書 (1)

【第1回】解読「吉田調書」

日本人は「吉田調書」からどんな教訓を学ぶべきか

2015/3/2

原発事故から4年

先月24日、東京電力福島第一原子力発電所2号機で、原子炉建屋の屋上にたまった比較的高い濃度の汚染水が排水路を通じて海に流れ出していた恐れがあることが判明した。東京電力はこの排水路の放射性物質の濃度が雨のたびに上がっていることを去年4月から把握しておきながら、公表していなかったと言う。

またか、と感じた人も多かっただろう。不都合な真実を隠そうとしている…4年前の原発事故発災時も、東京電力や政府に対して多くの人が不信感を抱いた。

原発事故から4年、われわれは福島原発事故の真実をどれほど捕まえられただろうか。事故が風化してしまう前に、現場のナマの声に立ち返り本当の真実に迫りたい。

国家の存亡のかかった危機対応の最前線に立ち、最悪のシナリオを寸前のところで回避した人間は、極限状態の中で、どのような情報に触れ、どのような感情を抱き、どのような判断を下したのか。

リスク、ガバナンス、リーダーシップの観点から危機対応の教訓をしっかりと引き出しておきたい。その思いで、昨年9月に公開された吉田昌郎・前東京電力福島第一原子力発電所所長のヒアリング調書を読み解いた。

まずは、吉田所長が官邸、そして東京電力本店と当時激しくせめぎ合った以下のレポートを読んで欲しい。いわゆる「撤退問題」の部分だ。当時の緊迫感が伝わってくる。

福島第一原発1-4号機(3月16日、東京電力)

福島第一原発1-4号機(3月16日、東京電力)

私も残るつもりでした

吉田「全員撤退して身を引くということは言っていませんよ。私は残りますし、当然、操作する人間は残すけれども、最悪のことを考えて、ここからいろんな政策を練ってくださいということを申し上げたのと、関係ない人間は退避させますからということを言っただけです」

吉田「そのときに(中略)清水社長が撤退させてくれと菅さんに言ったという話も聞いているんです。それは私が本店のだれかに伝えた話を清水に言った話と、私が細野さんに言った話がどうリンクしているのかわかりませんけれども、そういうダブルのラインで話があって」

吉田「あの退避騒ぎに対して言うと、何をバカなことを騒いでいるんだと、私は一言言いたいんですけれども、逃げていないではないか、逃げたんだったら言えと。本店だとか官邸でくだらない議論をしているか知らないですけれども、現場は逃げたのか。逃げていないだろう(中略)非常に状況は危ないから、最後の最後、ひどい状況になったら退避しないといけないけれども、注水だとか、最低限の人間は置いておく。私も残るつもりでした」

質問「本店の清水社長以下、幹部の方々の対応も同じような考え方だと受け止めていいですか」

吉田「あの人(清水正孝東電社長)が官邸に行ったとか、全然知りませんからね。こちらサイドでは」

14日夕方、吉田昌郎所長は作業員を福島第一のプラントから一時退避させることを決めた。

「総務の人員を呼んで、これも密かに部屋へ呼んで、何人いるか確認しろと…特に運転・補修に関係ない人間の人数を調べておけと。本部席の人間はしょうがないでしょうけれどもね。使えるバスは何台あるか。たしか2台か3台あると思って、運転手は大丈夫か、燃料入っているか、表に待機させろと…指示をしています」

吉田の言う部屋とは、免震重要棟1階にある当番部屋のことである。4つある部屋にはベッドが備え付けられているが、事故後、その一部屋を急きょ、吉田専用の部屋にあつらえたのだった。

吉田は、運転と補修を中核とする数十人ほどの社員はそのまま残って危機対応を続けるつもりだったと繰り返し主張している。「最後の最後、ひどい状況になったら退避しないといけないけれども、注水だとか、最低限の人間は置いておく。私も残るつもりでした」と述べている。

吉田の言葉に偽りはないだろう。緊対室で吉田を支えた腹心の部下2人も同じことを私に証言した。「総理が撤退は許さないと叫んでいるのをテレビ会議で聞いて、心底、違和感を感じた」とそのうちの一人は語った。

それだけに聴取では、東電「撤退」阻止に動いた官邸、なかでも菅直人首相に対して「何をバカなことを騒いでいるんだ」と、腹立たしい気持ちを吉田はぶちまけている。

本店への不信感

ただ、吉田は「撤退」騒ぎに関して「本店だとか官邸でくだらない議論をしている」と言い、本店を官邸と同列に置く形で、本店に対する不信感をも表明している。

吉田は次のように証言している。

「そのときに…清水社長が撤退させてくれと菅さんに言ったという話も聞いているんです。それは私が本店のだれかに伝えた話を清水に言った話と、私が細野さんに言った話がどうリンクしているのかわかりませんけれども、そういうダブルのラインで話があって」

吉田が「清水社長が撤退させてくれと菅さんに言った」情報を誰から聞いたのか不明である。そうした情報がその頃、現場に流れていた可能性もある。

もっとも、円卓に詰めた技術者は、「その頃、そのような話は円卓周辺では聞いていなかった。吉田さんが後で聞いた話なのではないか」と述べている。(「もっとも、退避とか撤退といった機微に触れる話はテレビ会議ではなく吉田が電話で関係者と直接やりとりしていた」ともつけ加えている)

もう一つ、「清水社長が撤退させてくれと菅さんに言った」事実はない。

「最悪の状況は2時間後」と告げられた清水がその夜、取った行動も、14日夕方から夜にかけて、「退避・撤退」に対する東電トップ経営陣の対応協議の内実も、いまなお多くの謎に包まれているが、清水は、まず、寺坂信昭原子力安全・保安院院長に、それから海江田万里経産相、さらには枝野幸男官房長官に「撤退」をほのめかす電話をかけた。この夜、海江田には何度も執拗に電話をかけることになる(ただ、寺坂は「(清水社長が)撤退と言ったとは私は理解していない」と民間事故調のインタビューに答えている)。

しかし、この夜、清水は菅には直接、電話していない。

吉田は、清水に対する侮蔑に近い感情をしばしばあからさまにしている。

「官邸から電話がありまして、班目さんが出てきて、早く開放しろと、減圧して注水しろと…四の五の言わずに減圧、注水しろということがあって、清水がそのときにテレビ会議を開いていて、班目委員長の言うとおりにしろとか喚いていました。現場もわからないのに、よく言うな、こいつは…と思いながらいました」

吉田調書で清水社長が登場してくるときは、呼び捨てにされるときだけのような印象を受けるほどである。

国策民営の罠

ただ、清水の立場に立ってみると、清水は経営トップとして、従業員の生命保全に責任を持っており、その観点からの危機管理をも強いられていた。

「最悪のシナリオ」となった場合、政府とどのような協同作業をするべきかギリギリの選択肢を模索する局面に入っていたことは間違いない。

それも、ありとあらゆる訴訟リスクの可能性を視野に入れつつ、できるだけそのリスクを軽減しようとする判断を迫られていたに違いない。

最後の最後、「撤退」を迫られた場合も、東電だけの決断でそれを行うことはできない。後は野となれ山となれの放棄はできない。1号機のベントも海水注入も2号機のSR弁開の「班目先生の方式でいってください」もすべて政府の指示を背に、それを社長命令として危機対応を事としてきた清水が、究極の決断となる「撤退」を国の指示に「従ってやる」ことを考えたとしても何ら不思議ではない。東電の対政府ロビイスト軍団である東電企画部がそうしたリスク分散策を考えなかったとしたら、むしろその方がおかしい。

当時、東電本店のオペレーション・センターで東電社員とともに事故対応に取り組んだ協力企業の技術者は、清水の動きについて「国の指示のもとにこうやりましたという、逃げを探していたんだと思います」との感想を述べている。

確かなことは、東電本店が「最悪のシナリオ」の場合、どの部署の責任者を何人残せ、という明確な指示を現場に出さなかったことである。つまり、最後まで踏みとどまる明確な意思を示さなかったということである。

さらに、この時の官邸の対応ということで言えば、この時点で東電の「撤退」が最大のリスクであると判断したことは間違いではない。当時、米政府も同じようなリスク評価を下していた。

また、たとえ「撤退」のおそれが誤解だったとしても、それは政府として「撤退」は認めないという政府の意思を明確にしておく危機管理策の一環と受け止めるべきであろう。

「最悪のシナリオ」を回避するには、オーバースペックをものともせずに備えるのが危機管理の鉄則である。

しかし、そのことは同時に、原発過酷事故という戦争に近似する危機の「最後の砦」を政府でなく民間にやらせるという国家意思の強制にほかならない。

ここにおいて日本の原発に特徴的な「国策民営」は、平時はともかく緊急事においては成り立たないことを明るみに出した。

日本の原子力発電は「国策民営」という名の下で、政府が掲げる原子力平和利用推進の「国策」を、民間企業が原子力発電事業を「民営」で担う体制で進められてきた。

しかし、原発危機においては、政府が最大限の責任を持って取り組む以外ないということを如実に示した。

にもかかわらず、国は危機管理能力の欠如を露呈させた。このような政府に、原子力行政を委ねて大丈夫なのか、という深刻な疑問を国民は持つに至っている。

この根本的な問いかけに、政府はいまなお答えていない。

本連載の位置付け

吉田調書は、未曾有の国家危機の中で、危機対応にあたったひとりの人間が、どのような情報から、何を考え、どのような判断を下し、どう動いたかという危機対応の追体験を可能にしてくれる。この調書は、吉田昌郎の遺言である。私たちは、そのように受け止めて、彼の肉声に耳を澄ませ、そこに潜む真実をつかみだし、そこから引き出した教訓に学ばなくてはならない。

「福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)」は2011年9月、一般財団法人日本再建イニシアティブの最初のプロジェクトとして設立された。半年間にわたって中立・独立・民間の立場から事故の原因と背景を調査・検証し、2012年2月に『調査・検証報告書(ディスカヴァー・トゥエンティワン)』を刊行した。同報告書の英語版を2014年3月、英国の出版社Routlegeから刊行した。

今回は民間事故調のワーキング・グループ有志メンバーが吉田調書を解読するとともに、それを踏まえて、民間事故調報告書で明らかにした事実と分析の検証を行った。

また、2015年2月4日、慶応義塾大学グローバル・セキュリティー研究所(竹中平蔵所長)と共催で、シンポジウム「吉田昌郎の遺言―調書が明かす福島原発危機の真実」を開催した。同シンポジウムは、これまであまり表に出てこなかった「原発危機に対する若い世代の見方や考え」を知ることを目的としており、同大学の学生約20人とパネリストとが危機対応に関する活発なディスカッションを行った。今回の報告書は、このシンポジウムの内容も収録している。

NewsPicksでの連載は、この報告書を一部抜粋し毎日掲載する。明日からは、慶応義塾大学で行われたシンポジウム、「吉田昌郎の遺言―調書が明かす福島原発危機の真実」のパネリストと学生とのディスカッションの様子を掲載する。

※登場する人物の肩書きはすべて福島第一原発事故当時のものである(一部敬称略)。

(執筆:船橋洋一、写真提供:日本再建イニシアティブ)