落ちこぼれアスリートの逆襲

連載第5回・元Jリーガーの逆襲

【最終回】プライドを捨てたから経営者になれた

2015/3/2
薮崎真哉は高校時代に日本一を経験して、将来を期待されたMFだった。だが柏レイソルでは6年間で2試合しか出場できず、24歳のときに戦力外になってしまう。人生のどん底だ。しかし営業の仕事に出会ったことで、そこから逆襲のストーリーが始まる。今では従業員45人を抱える経営者だ。最終回となる今回は、経営者としての挑戦を描く。
第1回:戦力外通告から社長にのし上がった男
第2回:1日を試合に見立て、営業の勝者になった
第3回:試合前日に六本木でナンパ。遊びにも熱中した高校時代の教訓
第4回:優勝目前で練習に遅刻。痛恨のミスで飛躍を逃した
薮崎真哉、1978年千葉県出身。習志野高校の2年時にインターハイで日本一に。1997年に柏レイソルに入団した。同期入団は北嶋秀朗。高校の2年後輩に玉田圭司がいる。6シーズン目に戦力外通告を受けた。(写真:本人提供)

薮崎真哉、1978年千葉県出身。習志野高校の2年時にインターハイで日本一に。1997年に柏レイソルに入団した。同期入団は北嶋秀朗。高校の2年後輩に玉田圭司がいる。6シーズン目に戦力外通告を受けた。(写真:本人提供)

起業、そして再び転落

24歳のときに柏レイソルを戦力外になった薮崎真哉は、営業の仕事に活路を見出し、ガムシャラに働いて8カ月間で独立を実現した。

会社の業務は、営業時代と同じく、飲食関連の出店コンサルティングをする営業――。

仲間にも恵まれて順調に売り上げも伸び、3年後には従業員が約25人になった。

それが噂となって柏レイソルの強化部長から声がかかり、選手たちの前で講演する機会にも恵まれた。

「その時点でレギュラー選手くらいの年収があったので、胸を張って話すことができました。サッカーはダメでも、いろんな可能性があると。計2、3回呼んでもらえました」

引退したときに貯金ゼロだった若者は、セカンドキャリアにおける“勝ち組”になろうとしていた。

だが、ここで再び悪い虫が騒いでしまう。あまりにもストイックな生活の反動からか、再び「遊び」の誘惑に引き込まれてしまったのだ。

自戒を込めて、薮崎は言った。
 
「独立した当初は日々戦っていたんですけど、うまくいき始めたら、調子に乗ってしまった。サッカー選手で言えば、レギュラーになってちやほやされて遊び出してしまうみたいな。最初のガムシャラさが失われていました」

業績が伸び悩むようになり、事業転換することが余儀なくされた。自らが創り上げた会社の事業はわずか3年半で区切りをつけることになった。

「そのとき29歳。サッカー選手としてクビになったのとは比べものにならないほどのショックであり、挫折でした」

成功体験を捨てて新たな分野で起業

だが、もはや薮崎は落ちこぼれだったプロ時代とは違う。BS(貸借対照表)もPL(損益計算書)も読める、若きビジネスの挑戦者だ。

1度は成功した飲食コンサルタントの業界に見切りをつけ、2008年10月、WEBリスクコンサルティングの会社『株式会社ジールコミュニケーションズ』を立ち上げた。

インターネット上の誹謗中傷や風評被害への対処をコンサルティングする会社で、SNSの普及に伴って事業も右肩上がりに伸びて行った。

「WEBリスクコンサルティングという新しい市場に出会えたことが、とても運が良かったと思います」

もう同じ過ちは繰り返せない。自らを律するのはもちろん、チームマネジメントにも細部までこだわるようになった。

「サッカーチームと同じで企業にもフィロソフィーが大事だと考え、7つの『クレド』(ラテン語で志、信条)を社員たちに掲げて共有しています。事業内容や売り上げも大切ですが、会社の文化が下に浸透していないとバラバラになってしまう。『クレド』は『今やらないで、いつやるの?』といった内容なのですが、毎朝の朝礼時に持ち回りでそれにまつわるエピソードを話してもらっています。現在の社員数は45名。各自で見れば2カ月に1回くらいのペースですが、すごく大事なことだと考えています」

薮崎は柏レイソルのサテライトチーム(2軍)の試合でキャプテンを務めていた。だが、「元々リーダーシップはなかった」と言い切る。

「キャプテンになるのは嫌なタイプでしたから。でも、戦力外通告を受けて、営業で8カ月間ガムシャラに仕事したときに人格が変わったんです」

元選手にチャンスを与えたい

今、薮崎は事業を成長させると同時に、後進の育成にも力を入れている。

元Jリーガーを積極的に採用しているのだ。

「サッカー選手や野球選手は引退した後にある程度の貯金があると、飲食店をやるケースが多い。それも悪くありませんが、こういう道があることも知ってほしいのです」

今、薮崎の会社ではJ2やJFLの元選手が働いている。

薮崎は元選手には、必ず最初にこんな言葉を投げかけている。

「元サッカー選手というプライドほど、邪魔なものはない。そもそも君たちはサッカー選手と呼べるような選手ではなかったんだ。まずはそのプライドを捨てよう。その代わりに、選手時代よりも一生懸命努力して稼げばいいんだ」

薮崎はこの言葉の真意をこう語る。

「自分がクビになったときに、『元プロだぜ』という変なプライドを持ったら絶対に社会で通用しないと思ったんです。だからこそすべてを捨てて、営業の仕事に没頭できた。J2でやっていた元選手の面接ではこう言いました。『俺もそうだったけど、自分の努力不足でここにいる。それを消化したうえで、ゼロからここで頑張れ』と」

さらに人材を発掘するために、薮崎は子会社を作って体育会系の新卒を企業に紹介する事業も始めた。学生を数十人集め、企業を呼んで合同説明会を行なうのだ。その中にはプロに進むか、悩んでいる学生たちもたくさんいる。

「たとえば大学4年生で、プロからのオファーを待っているという学生がいました。JFLでもいいと。彼に言いました。『なぜサッカー選手になりたい? いい車に乗って、いい服を着て、きれいな女性と付き合いたい? 家族を幸せにしたい? それならビジネスの世界でもできるぞ』と。試合でゴールを決める達成感と、営業で努力して契約をもらう達成感はまったく同じだ、ってね」

いつか自分のクラブを持ちたい

薮崎には“元Jリーガー経営者”として夢がある。

「今の事業を伸ばし、新規事業を拡大して、4年以内にグループで経常利益を10億円出すのが目標です。そして会社が大きくなったら、いつかJ2かJ3のクラブの経営をやりたいと思っているんですよ。それが自分の大きな目標です」

ときに浮かれ、ときに遊び過ぎたことで、薮崎はサッカー選手として成功できず、落ちこぼれてしまった。

だがそれでも、目標を設定したらガムシャラに走り続けるというアスリートの執着心だけは失われていなかった。その一点にすべてをかけ、見事にセカンドキャリアにおける「番狂わせ」を成し遂げた。

「まだ、まったく成功したとは思っていません」

セカンドキャリアの新たな可能性を、これからも薮崎は示し続ける。

新しく移転した恵比寿のオフィスにて(写真;本人提供)

新しく移転した恵比寿のオフィスにて(写真;本人提供)