【国枝慎吾】「ダイバーシティ」という言葉がなくなる日まで
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連載最終日は「車いすテニスを福祉ではなくスポーツとして認知してもらう」ために苦悩してきた国枝さんの葛藤の日々についてお話を伺いました。
国枝さんがおっしゃるように、目が悪い人は眼鏡をかけるし、足が悪ければ車いすを使う。でも、車いすでテニスをすると、急に「共生社会」なんて言葉が出るのは、たしかに疑問を持ってもいいことのように感じました。
DE&Iの議論が活発になっている昨今だからこそ、改めて考えたいあるべき社会の姿について、ぜひコメントで意見をお聞かせください。
注目のコメント
日本語の「共生社会」というのは、具体的な意味がはっきりしません。
「共生社会」というのは、英語のconvivial society、もしくはinclusive societyを日本語に訳そうとしたものでしょう。
Coexistence societyとかではないはずです。そんないい方は、英語ではほとんどしませんから。日本人が書く英語だと出てきますが。
Convivialityとかconvivialismというのは、人工的に、半ば強制的に、同じ場に(たとえば職場や学校に)、多様な人々を集めて共同作業させることです。
Coexistenceだけであれば、マイノリティの人々はマジョリティの人々と接点を持たずに、同じ国の中でも隠れ里とか離島とかで生活していてもいい、ということになります。
Convivialismというのは、つまり、無理矢理ダイバーシティを社会の中に実現することで、学校も企業も文化もスポーツも、それに協力してもらわなければならない、という主義です。
これは、そうしなければ、いずれ民族間、宗教間などの衝突が起きるから、ふだんから混ぜ合わせておかねばならない、という、第2次大戦後のヨーロッパで出てきた主義です。
米国でも、多様な移民が別々に生活コミュニティや経済共同体をつくっていては、米国は分裂するので、convivialityを進めて、ダイバーシティのある学校や職場、映画、スポーツなどを、強制的にでもつくらなければなない、という意志が推進してきたことです。
「ダイバーシティのためにスポーツをやれ」というのは、国策なのです。
日本人が、そういう社会のあり方を実現する意志も共有していないのに、convivialismに参加するように要求されても、違和感を持つ、というのは、それはそうでしょう。
アジア、アフリカ諸国では、異なる民族や宗教は分けておいて、接触させない方がいい、という考え方も、非常に根強いです。