2023/5/17

DXは「創薬の当たり前」をどう変革するのか

NewsPicks Brand Design editor
 DXは創薬の研究開発に大変革をもたらすかもしれない。
 現状、ひとつの新薬の研究開発には数百億円から数千億円という膨大な資金と、開発から上市まで10年以上の歳月がかかるといわれる
 この状況を変えるためには、AIをはじめとする最新のデジタル技術の活用による新規価値創出、業務効率化に取り組むと共に、膨大な医療データを連携して有効活用できる医療システムを構築する必要がある。
 それができれば、新薬開発のコストと時間を削減でき、デジタルを活用した革新的な新薬創出により、一人ひとりに最適な医療を届けられるようになる。
istock/jittawit.21
 そのような未来像を描き、創薬をDXで根本的に変えようとしているのが中外製薬だ。同社は2019年に「デジタル戦略推進部」を設立。AIを活用した革新的新薬創出や、デジタルバイオマーカー、リアルワールドデータなどの活用を通じた新たな価値提供と、研究開発から営業まで、すべてのバリューチェーンの効率化に取り組んでいる。
 創薬事業の未来を変えていくために、乗り越えなければならない壁は何なのか。また、乗り越えた先にはどんな世界が広がっているのか。
 同社上席執行役員 デジタルトランスフォーメーションユニット長としてDXを推進する志済聡子氏と、『DXの思考法』の著者である西山圭太氏に、製薬業界のDXについて語ってもらった。
西山圭太
1963年東京都生まれ。85年東京大学法学部卒業後、通商産業省(現経済産業省)入省。92年オックスフォード大学哲学・政治学・経済学コース修了。入省後、産業革新機構専務執行役員、経済産業省大臣官房審議官(経済産業政策局担当)、東京電力ホールディングス取締役・執行役、経済産業省商務情報政策局長を経て2020年7月退任。著書に『DXの思考法』(文藝春秋)がある。

志済聡子
1986年に北海道大学を卒業後、日本IBMに入社。官公庁システム事業部第二営業部長、ソフトウェア事業 公共ソフトウェア営業担当(部長職)や理事 インダストリーソフトウェア事業部長などを歴任後、2009年から同社執行役員として公共やセキュリティ事業を担当。2019年5月に中外製薬にキャリアチェンジし、執行役員 IT統轄部門長に就任。2019年10月に執行役員 デジタル・IT統轄部門長、2022年1月に執行役員 デジタルトランスフォーメーションユニット長を経て、2022年4月より現職。

なぜ創薬のDXは進まないのか?

西山 医療業界はデータの塊です。診察を受ければカルテを書きますし、薬を作る際も承認を受ける際もさまざまなデータで有効性・安全性などを証明します。
 その意味でDXは医療分野と相性が良いのですが、一方であらゆるところで蓄積されているはずのデータを十分に活用できているか、医療やヘルスケア全体のサービスに結びつけているかというと、そうとは言い切れないと思っています。
志済 そうですね。革新的な新薬の創出を加速するためには、例えば、電子カルテのデータや医療のビッグデータといわれるリアルワールドデータ(RWD)などの解析や利活用が重要です。
 しかしながら、製薬会社が探索的にデータにアクセスすることはできませんし、現状は学術研究のための利用が基本です。
 西山さんがおっしゃる通り、そこに医療とDXの課題があると思っていますが、学術研究だけでなく、創薬にも活かしたいという声は大きくなってきています。
 私たちもさまざまなメディアやディスカッションの場を通じて産官学を巻き込んだRWD活用について意見を出していますし、厚生労働省が医療DX推進本部を作ったり、次世代医療データプラットフォームの構築に向けて官と学が連携したり、DXの取り組みが加速していると思います。
西山 連携の面では、「システム思考」が実現できていないことに弱点があるように思います。例えば、地域医療では同じ地域内に複数の医療機関があり、それぞれが独立して医療サービスを提供しています。
 それは経営視点で見れば自然なことなのですが、その地域に住んでいる人は各施設がつながったものが医療サービスだと期待しています。
 しかし、実際には医療サービスがひとつのシステムとして相互につながっていないため、データもつながらない。医療サービスをシステムとして捉えられていないから、データの塊を活用しきれないのではないかと思うのです。
志済 似たことがITについても言えると思います。電子カルテを例にすると、ベンダーごとにコードが違うため、ビッグデータとして統合することができないのです。
 その点については、今後は標準化していく動きがあるので期待していますが、これは業界全体の話ですので、中外製薬だけではなく、国や患者さんを含む国民全体の力で越えていかなければいけない課題だと思っています。

データ提供者にメリットを提供できているか

志済 データの利活用という点でもうひとつ課題と感じるのは個人情報の問題です。
 この数年は個人情報保護法の改正もあり、データの利活用に向けた規制緩和の方向に向かっているように感じますが、データの利活用に対する国民的、社会的な同意が得づらい状況が続いています。
西山 その点はサービスを提供する側にも課題があるのではないかと思っています。
 データを提供する個人の意識としては、パーソナライズされたサービスを受けられ、それが自分にとってプラスになるのであればデータを提供しようと思うはずです。
 しかし、そこがおそらく伝わっていません。「データの活用方法は私たちが考えますので、とにかく同意してください」と言われているように感じるのです。
志済 ユースケースがあると伝わりやすいのかもしれませんね。
 例えば、初めて行く病院でも自分の今までの病歴、治療方法、服用している薬などがすべて分かり、そのようなデータを踏まえて医師から的確なアドバイスをもらうことができれば、データ活用の価値が伝わりやすくなりますし、同意にも結びつくと思います。
西山 日本人に限りませんが、健康に関心がある人はたくさんいます。健康や医療はパーソナルなものですので、家族であっても同年代であっても、健康状態や病気の症状は一人ひとり異なります。
 自分の健康に良さそうな運動や食事などの方法や、一人ひとりが自分に合った最適な治療法を客観的に見つけ出そうとすると最終的にはデータに行きつきますよね。
志済 データ化することで自分がやっていることと自分の健康との関係が見えてくるでしょうね。
西山 「自分のデータは出しません、病歴も見せません、でも、いい薬を処方してください」というのは無理がある。
 私のように創薬と接点がない人でも「健康はパーソナルなもの」という点から考えていけば、その人の生活習慣や健康状態を踏まえて、人それぞれ飲む薬が違って当然と理解できます。
 そうなるとどのようなメリットがあるのか。サービスを提供する側もそうした点を踏まえてしっかり説明していけば、医療のパーソナライズや、そのためのデータ利活用の重要性についてもユーザーに伝わりやすくなると感じます。

製薬のグローバル化をどう生き抜くか

西山 デジタルを当たり前に使うようになって、身の回りではeコマースの普及や、あらゆるサービスがスマホで利用できるといった目に見える変化が起きたわけですが、私は最初に変化が起きたのは製薬業界ではないかと思っています。
 80年代にバイオ革命といわれた時代があり、そこで薬の作り方が大きく変わりました。それまでは垂直統合型組織の創薬メーカーが大きい研究所を持って創薬を引っ張っていました。
 しかしDNAの研究が進み、データベースを見られるようになり、さらにデータを解析するツールが生まれたことで、大きな組織でなくても薬が作れるようになりました。バイオベンチャーが生まれたのもその結果だと思います。
志済 日本のサイエンス力は高いですし、優秀な研究者も多いと思っています。そういった人財がデータ解析やツール開発の得意な企業と組むことで良い成果が出せるようになっています。
 グローバルで得意領域の異なる人や企業が結びつきながら薬を作る時代の中で、かつてのように、「ここは日本が強い分野」「ここは海外が強い分野」という線引きで考える時代ではなくなっています。
 製薬会社それぞれが自社の強みを活かし、デジタルによって強化していくことが大事ですよね。
 中外製薬は、抗体医薬、中分子医薬をはじめとした独自の創薬技術が非常に高く評価されています。海外を見ると欧米のメガファーマと呼ばれるところが強いのですが、その中で個々の企業が差別化を図っていくことが課題だと思いますし、どうやって差別化していくかという点は個々の企業が悩んでいることだと感じます。
西山 日本と海外企業との比較といった観点ではなく、それぞれが強みを発揮するという話ですよね。
志済 そうですね。日本の製薬会社は海外と比べてどこが優れているか、という視点もあるかもしれませんが、グローバル化を含む時代の変化を踏まえると、それぞれの企業が独自性を持って、世界のマーケットで優れたものを出していくことが求められるのだと思います。

DX推進のカギは“全社ゴト化”すること

西山 中外製薬のDXはどのように推進しているのですか。
志済 私たちが何をしたいかを明確に発信するのが重要だと思っています。
 例えば、治療法がまだない希少疾患の患者さんを救う革新的な治療薬を開発したい、そのためにRWDなどのデータの活用を推進したい、といった内容です。
 それが患者さんにとってもさまざまなベネフィットを生み出していくはずですし、医療全体で見ても治療の高度化にも役立つでしょう。増大し続けている医療費の課題解決にもつながっていきます。
 その状態を私たちは「四方良し」と呼んでいます。
 また、発信によって私たちの考えに賛同するパートナーも増えていくと思います。例えば、RWDのデータベースを構築している事業者、ベンダー、異業種でヘルスケアに興味のある企業などを巻き込むことができ、さまざまなパートナーシップを通じてエコシステムを築き上げられるでしょう。
 そこには当然、行政も必要です。行政も国民の医療情報をもっと国民の健康に役立てたいという強いインセンティブと使命を持っていますので、連携もしやすくなるだろうと思っています。
西山 元々IBMにいらっしゃった志済さんが、中外製薬に入社したのは当時の社長だった小坂さんとの縁がきっかけだと聞きました。小坂さんはどのようなDXを構想していたのですか。
志済 小坂さんは「ITのことは分からない。ただ、やりたいことは分かっている」とおっしゃっていました。創薬技術力をさらに強化したい、そのためにDXを推進したいという企業としての明確な目的を持っていました。
西山 組織のリーダーが目的を示すことは大事ですよね。
DXはデジタル化の取り組みであるためツール選定から考え始めることが多いのですが、まずは企業の目的があり、その目的を実現する手段としてデジタルのツールを当てはめるという考えが大事です。
志済 DXの取り組みでは「革新的な創薬」と、研究、臨床、開発、製造、営業といった「バリューチェーン内の非効率な部分を改善すること」の両輪を重視しています。
 医薬品の研究開発は膨大な資金が必要となるため、会社の資源を最大限まで創薬に投資するために、事業を徹底的に効率化したいと考えていたわけです。
 そこで、まずはITや人財の基盤を強化することから取り組み始めました。例えば、私たちは工場を3つ持っていますが、工場の間接業務や作業計画などは工場ごとに違い、工場内でもラインごとに違っていました。
 ITシステムも部門ごとに最適化されていて、社員のスキル共有もなかなかできない環境だったので、そういった部分のデジタル化から着手し、工場から営業など他の部門へと広げていきました。
西山 創薬だけに絞らず、生産などの部門も含めてDXに取り組んでいるわけですね。
志済 はい。DXを“全社ゴト化”しているのが私たちの特徴だと思います。
 2030年に向けたビジョン「CHUGAI DIGITAL VISION 2030」の中でも、基本戦略として「デジタル基盤の強化」「すべてのバリューチェーン効率化」「デジタルを活用した革新的な新薬創出」を掲げています。

デジタルは「真の個別化医療」を実現する起爆剤となる

西山 創薬は「全く新しいものを生み出す取り組み」であり、工場の効率化は「既存のものを組み直す取り組み」です。どちらもDXであり、データの利活用という点では同じことですが、別のものと捉える人も多いと感じます。
 最先端のデジタル技術が何をしているかというと、ひとことで言うとパターンを発見しています。話題のChatGPTが分かりやすい例で、ネット上にある情報からパターンを見つけ出し、それを組み合わせて答えを提示しています。
 創薬は作りたい薬の物質のパターンを発見することですし、工場の効率化はラインなどの効果的な組み方を発見することで、実はどちらもパターン認識の話なのです。
 ただ、私は一緒だと思っているのですが、普通は別物だと考えます。その点で「創薬」と「効率化」の両方をひとつの土台の上に掲げる中外製薬のビジョンはチャレンジだと感じます。
志済 データ利活用の重要性の話に通じますね。パターンを発見する技術が高まっているからこそ、そのためのデータを利活用できる環境づくりが大事です。
 例えば、私たちがやりたいことのひとつとして、RWDを活用して臨床開発の申請から承認までのスピード向上が挙げられます。
 臨床試験は、治験薬を投与する患者さんと投与しない患者さんを分け、その効果を比較します。今後、治験薬を投与しないグループをRWDを用いた合成対照群に代替することで、圧倒的にコストと時間の効率化を図ることができます。
 この道筋が確立できれば、患者さんにいち早く薬を届けられるようになりますし、被験者数が少ない希少疾患の臨床試験におけるRWDの活用や、プラセボ(偽薬)を投与する患者数を減らすといった、さまざまなメリットが考えられます。
 そのためには、まずはRWDを活用した試験を行政に認めてもらい、症例を増やしていくことが重要です。
西山 乱暴に言えば、治験で薬の効果を見る取り組みも、元来、人をデータモデルとして捉えていると考えることもできます。
 ただ、そこも世の中に理解されにくいところで、「データはデータ、人とは違う」という考えがあります。理屈としては人がデータモデルだとしても、単に人とデータが一緒だと言われると、感覚的に違うだろうとなるので工夫が必要です。
志済 蓄積された医療データからデータモデルを作る、まさに生体の「デジタルツイン」みたいな話ですよね。すでに工場のライン変更などはデジタルツインでテストするケースが増えていますが、今後は治験や臨床もデジタルツインを用いて、ある程度の有効性や特性を見ることができるようになるかもしれません。
 例えば、メタバースのような3次元化の技術やシミュレーション技術が発展する中で、臓器のデジタルツインを作るといったことも今後の医療ではあり得ると思いますし、人を基にしたデジタルツインでデータを蓄積し、分析する世界が来るのではないかと思いますね。
西山 創薬に限らずサイエンスも大きく変わろうとしています。そのきっかけはデジタルだと思いますし、だからこそ、DXに注力する中外製薬には変化をリードする取り組みを期待します。
志済 ありがとうございます。私たちは創薬を通じて技術力とサイエンス力を磨き、遺伝子情報などに基づいて治療計画を立てる「個別化医療」の分野をリードしてきました。
 ただ、そこからさらに飛躍していくためには起爆剤が必要ですし、それがデジタルであるという点は私も同感です。サイエンスとデジタルの掛け合わせで創薬の当たり前を変革する。そのための材料と機会を作ることが私の仕事だと思っています。