二点、気になったこと。 一つは、同社の規模でやるなかで、どういう難しさがあるか。「会社は社員が自己実現するための道具である」という櫻田CEOの言葉に完全に同意したという発言がある。でも色々な自己実現があって、また本人・会社も常に変わるものだから、Will / Can / Mustが重ならない、記事的に言う「パーパス」がない状態も、特にこれだけの人数がいる組織であれば当然一定の確率であると思う。 そのなかで、どこまでの強度でパーパスを求めるのか、リスクやコストとリターンをどう考えられたり、どういう工夫をされているか。パーパスを同僚などにどこまで表明するかの自由度も含めた多様性について、どう思われているだろう。
二つ目は、MYパーパスという言葉にも関わるが、パーパスというものをどう捉えられているか。 従来多かったミッション・ビジョンとは似て非なるもの、と自分は捉えている。ミッション・ビジョンは自社起点、自社はこうする・これを目指す。一方でパーパスは、社会とこうやって関わっていくといった感じで、社会と自社の関係性、社会起点。関わって付加価値を提供するから存在意義(意義=パーパス)がある。 Will / Can / Mustは、未来についての言葉になりがち。その意味で、意外にパーパスとの食い合わせが悪いのではないかと思うときがある。自分自身はパーパスに同意しているから、仕事が大体楽しく感じられる(WillとMustが容易に見つかる、つなげられる)。なのでCanがあれば当てはめられるという「受動的Will / Can / Must」な感じ。強烈にパーパスに同意しているから、Willを聞かれると「何でも行けるよ!」と良くも悪くも思う。 同社はパーパスか、Will / Can / Must、どっちを重視したのだろう?もしくはどう両立させているのだろう?
ただ唯一気になった点が一つだけ。質問の流れで使ってしまったと思うのですが、専門人材を「傭兵」と表現するあたり、まだまだメンバーシップ型雇用の意識が根強いのかなぁと感じてしまいました。一つの会社にとどまることなく、複数の会社でキャリアを築いていくことが当たり前になる世の中において、雇用形態に関わらずPJを成功させるチーム組成がこれからの時代必要になるはずです。「傭兵」とは金銭を利として雇われる方のことを指しますが、「傭兵」もまたひとりの個であり、文中にある通り「パーパスは、誰にでもある」のではないでしょうか。
頭では理解していても実際に組織文化ごと変えようとするのは決して簡単なことではないですね。
前職時代のある時、そのように思った日がありました。そして、自分のモチベーションとエンゲージメントが「爆増」した記憶があります。
ツールと位置づけると、会社を卑下しているように思われるかもしれません。実際にはそうではありません。
その会社に貢献することを第一目的にするのではなく、
お客さんに何かしらの価値を提供する、同時に自分のキャリアのプラスになる、
と考えると、実は長期的にその会社の信頼やブランドを含めて貢献することになる、
自分のキャリアにプラスになるなら、会社の短期的な評価を無視してでもモチベーション高く仕事に取り組めるようになる
このように、「いいこと尽くし」でした。
ただし、「道具は人を選ぶ」との格言もあります。自分の実力が伴っていないと、そのツール(会社)に所属してもパフォーマンスを発揮できない=その会社に所属する資格がない
こうした良き緊張関係も生まれます。
ちなみに、日立製作所の元会長の中西さんにインタビューした際、「会社とは、自分だけではできない『でかいこと』を他人の金を使ってできる『場』」と明言していたのも、印象的でした。
企業にパーパスがあれば、そのパーパスにあった人材が集まってきます。
労働マーケットへの言及が記事にあるが、運用という職業自体も常に「マーケット」を意識せざるを得ない。Compsという横比較をして割安だったとしてもリターンが出るわけでもない。何より、株価・資産価格という「事実」を常に突き付けられる。自分がどんなに正しいと思っていても突き付けられるから、何回も間違っていたこと、評価なんて移ろうものというのも認識せざるを得ない。
二点、気になったこと。
一つは、同社の規模でやるなかで、どういう難しさがあるか。「会社は社員が自己実現するための道具である」という櫻田CEOの言葉に完全に同意したという発言がある。でも色々な自己実現があって、また本人・会社も常に変わるものだから、Will / Can / Mustが重ならない、記事的に言う「パーパス」がない状態も、特にこれだけの人数がいる組織であれば当然一定の確率であると思う。
そのなかで、どこまでの強度でパーパスを求めるのか、リスクやコストとリターンをどう考えられたり、どういう工夫をされているか。パーパスを同僚などにどこまで表明するかの自由度も含めた多様性について、どう思われているだろう。
二つ目は、MYパーパスという言葉にも関わるが、パーパスというものをどう捉えられているか。
従来多かったミッション・ビジョンとは似て非なるもの、と自分は捉えている。ミッション・ビジョンは自社起点、自社はこうする・これを目指す。一方でパーパスは、社会とこうやって関わっていくといった感じで、社会と自社の関係性、社会起点。関わって付加価値を提供するから存在意義(意義=パーパス)がある。
Will / Can / Mustは、未来についての言葉になりがち。その意味で、意外にパーパスとの食い合わせが悪いのではないかと思うときがある。自分自身はパーパスに同意しているから、仕事が大体楽しく感じられる(WillとMustが容易に見つかる、つなげられる)。なのでCanがあれば当てはめられるという「受動的Will / Can / Must」な感じ。強烈にパーパスに同意しているから、Willを聞かれると「何でも行けるよ!」と良くも悪くも思う。
同社はパーパスか、Will / Can / Must、どっちを重視したのだろう?もしくはどう両立させているのだろう?