世界で戦う和僑たち_150131

大手も参入する新たなビジネス

シンガポール新市場、「野菜工場」の仕掛人は元鉄鋼マン

2015/1/31
日本の鉄鋼メーカーが、シンガポールに子会社を設立し「野菜工場」を運営している。日本から種、肥料、設備などを持ち込み、ハイテク企業が集積する北部郊外のセンバワン工業地区に193平方メートルの工場を開設。今年3月に生産を開始し、4月に初の収穫を迎えた。
アローインダストリーズ倉橋誠司社長(右)と西達也工場長(左)。

アローインダストリーズ倉橋誠司社長(左)と西達也工場長(右)。

自分が食べたかったから

それにしても「鉄」と「野菜」——。まったく関係ないように見える二つのビジネス。その仕掛人は、元鉄鋼マンで野菜工場の現地法人「アローインダストリーズ」の社長を務める倉橋誠司氏だ。野菜工場へ参入したきっかけは「アジアで長年勤務し生活する中で、美味しい日本の食材を味わえないことに我慢ならなかった」という実に単純明快な理由だ。

「もちろん高いお金を支払えば美味しい日本からの輸入食材は手に入ります。しかしいつもそれを買うわけにはいきません。野菜をはじめアジアの食材は、日本のものと比べるとやはり味で劣る。ドレッシングをたっぷりかけないと味がしなかったり、葉と葉の間に虫がいたり、見た目がいびつだったりもします」

自分が美味しい食材を海外にいながらにして食べたいがためにそれを事業化してしまった倉橋氏のバイタリティーには感服させられる。一方で、ビジネスとしての勝算も確信している。

同氏いわく、シンガポールは国土が小さく、農地も限られている。そのため、食料自給率は非公表だがおそらく1割未満。野菜の自給率は他の食材に比べれば高い方だが、それでも供給の大半を周辺国からの輸入に頼っている。一方で、一部のスーパーで売られている日本の食材は飛行機などで輸送されているため価格が高い。

倉橋氏が狙うのはその「中間」。すなわち、輸送コストをかけず、「現地で」日本レベルの野菜の生産を可能にすることだ。そうすれば、シンガポールに住む日本人はもちろん、比較的裕福で親日的な現地の人にも受け入れられるはず、というのが倉橋氏が描く青写真だ。

こうした読みのもと、アローインダストリーズは資本金1100万シンガポールドル(約10億円)で2010年に会社を設立。ハイテク企業が集積する北部郊外のセンバワン工業地区に193平方メートルの工場を開設する計画に着手した。

しかし、鉄鋼マンが野菜を作ることはそう簡単ではない。シンガポールで野菜工場を開設するには、農産物・家畜庁(AVA)と都市再開発庁(URA)の許可を得なければならない。前者は問題なかったのだが、URAの理解を得るのが一筋縄ではいかなかった。野菜工場が前例のないビジネスであることが障壁となったのだ。

工場で作られた野菜はどんな味?

工場で栽培されたフリルアイス(中央)、グリーンマスタード(右下)、ブラックローズ(右上)、わさび菜(左上)、ミズナ(左下)。

工場で栽培されたフリルアイス(中央)、グリーンマスタード(右下)、ブラックローズ(右上)、わさび菜(左上)、ミズナ(左下)。

農業はあくまで農地で行うものであり、ハイテク企業が入居する工場の屋内で行うべきものではない、当初、URAの担当者は取りつく島がなかったという。野菜工場というビジネスの知名度が極めて低かったため、事業内容がなかなか理解されなかったのだ。「これまでで一番苦労したこと」と当時を思い出す倉橋氏は苦笑いを浮かべる。

それでも同氏は担当者の元を足しげく訪ね、行政を説得。これで、ようやく工場開設のめどが立った。だが、一難去ってまた一難。次に倉橋氏を悩ませたのは人材の採用だった。

同氏いわく、農業の仕事はシンガポール人からは不人気だという。「アローインダストリーズ」の取り組みがいくら先進的とはいえ、農業=きつい仕事。それに就くことで「自分の社会的地位が下がってしまうというネガティブイメージは根深かった」という。結果、現地の人材の応募は集まらず、日本人を3名採用した。

工場で現在栽培している野菜は、フリルアイス、グリーンマスタード、ブラックローズ、わさび菜、ミズナの全5種類。いずれも袋から出した後、水で洗わなくても食べられる。特にはじめの3種類はあまり馴染みのない野菜かもしれない。

現在、工場には10000株の野菜を育てられる横7メートル、縦2メートルのパレットを高さ4メートルの空間に5段設置。パレットの中に種をまき、無農薬の肥料を含んだ培養液を循環させ、太陽光の代わりに数倍の量の光を蛍光灯で照射して育てる。育てる上で最も大切なことは、水の中に含まれるイオン濃度を電気的に適切にコントロールすることだそう。

室内の温度は21度で一定。CO2の量は大気の数倍の状態で安定させ、通常の農作物に比べて短期間での収穫が可能となっている。入り口には防虫ネットとエアシャワーと呼ばれる空気のカーテンを設け、虫や空気中の浮遊物質の侵入を防ぐ。種、肥料は日本から輸入したものだ。ちなみに日本で作られた種は発芽率や育った野菜の形が、他の国のものと比べて良いそう。そうして育った野菜を前出の日本人従業員が収穫し、パッケージング。シンガポールに居ながら、日本品質を実現する。

「鉄鋼メーカーとして培ってきた、データ取得や装置の組み立て、メンテナンスの技術などのノウハウや工業的な感覚が生かされています」(倉橋氏)

筆者は普段自宅では、現地のスーパーで購入したシンガポールもしくは周辺国で作られた野菜を口にしている。取材のあとに倉橋氏からお裾分けいただいた野菜を自宅で実食した。味を正確に確かめるためにサラダで試したが、味付けされていない野菜の本来の味がこんなにも濃かったことを思い出した。口に入れると歯ごたえや葉の感触からその元気さが伝わり、違いを実感した。

アローインダストリーズの野菜工場。

アローインダストリーズの野菜工場。

アローインダストリーズの運営する野菜工場の1日の製造量は約300株とまだまだ少ない。だが、その生産効率は、同じ面積の農地と比較した場合、約36倍と圧倒的な効率性を誇る。

現在のところ、販売先はレストランと個人。個人にはシンガポールの楽天市場もしくは食材として扱っているレストランで販売を行っている。通販での主な顧客は日本人の女性だが、徐々にシンガポール人も増えてきている。楽天ではリピーターも出てきているそうで、これからクチコミで評判が広がっていきそうだ。

倉橋氏はただの「野菜工場」で終わるつもりはない。消費者とのコンタクトポイントを拡大させるべく、栽培した野菜とそれで作った野菜ジュースを実食できるサラダバーをオープンする予定だ。現在は効率よく育てられる葉物だけを扱っているが、いずれはトマトやイチゴ、メロンなどの果物にも品種を広げたいと考えており、すでに実験を開始しているという。

パナソニックも参入

シンガポールの野菜工場ビジネスには大手のパナソニックも参入している。グループ会社であるパナソニック ファクトリーソリューションズ アジアパシフィックは今年7月、工場で栽培・収穫した野菜を同国に進出している日本食レストランの大戸屋に供給すると発表した。

アローインダストリーズとは異なる栽培方法で、葉物野菜と根菜の両方を、同社 LED照明設備を使用して育てている。8月時点での年間の総生産量は3.6トン。グリーンレタス、サニーレタス、ミズナ、ミニ赤大根、ミニ白大根、ルッコラ、バジル、大葉、三つ葉、ベビーホウレンソウの10種類の野菜を栽培中。

8月時点でのパナソニックの野菜の生産量はシンガポール全体の0.015%に過ぎないが、2017年3月末にはこれを5%にまで引き上げ、30種類以上の農作物を育てることをもくろんでいるという。

大手も参入する野菜工場ビジネス。アローインダストリーズの倉橋氏は、パナソニックのような大手の参入をポジティブに捉えている。一方で、土を使わない自社の栽培方法なら、虫が来たり、収穫時に土がついてしまうことがないため、殺菌剤を使う必要がなく、野菜の元気をより保つことができると、独自の知識とノウハウに自信を持つ。

国土の小さいシンガポールならではのビジネスを、日本の農業と工業の技術を組み合わせて手がける倉橋氏の挑戦。同じ日本人として、ぜひ成功してほしいと思う。

※次回は来週土曜日に公開する予定です。