【新春提言】日本人は「嫌われる勇気」を持て
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ディケンズの『二都物語』は、フランス革命進行中のパリと、同時代のロンドンが舞台です。
1790年代のパリで、日々、刃物を持ち歩いては、「ブルジョワ」を血祭りにあげ、断頭台にかけては喝采を上げる民衆たちが描かれています。
まさに、「嫌われる勇気」を持った人たちの典型でしょう。嫌われても平気なのは、自分たちが正義という信念があるからです。
「嫌われる勇気」を持った人たちは、その後、ロシア革命も起こしたし、ナチスなども、社会の鼻つまみ者でありながら信念を貫いて天下を取りました。
ヨーロッパ人は、世界のどの地域よりも「嫌われる勇気」を持ち、イノベーションを起こし、世界の大部分を植民地化しました。
ヨーロッパ人は、「嫌われる勇気」を持つ人物が大好きで、非ヨーロッパ人ながらも、彼らが一目置くような政治家というのは、ガンディーとか、毛沢東のような人物です。
日本人で尊敬するべき政治家など、一人も思い浮かばないでしょう。
ヨーロッパ人の革命に走りがちな傾向というのは、アーレントなど、ヨーロッパ人の一部(特にユダヤ人)からも懐疑の目を向けられるようにはなりましたが、非常に根本的な体質なので、まず無くなることはありません。
なにせ、キリスト教の教祖にしてからが、社会秩序を乱して死刑になった人物です。
ヨーロッパ人というのは、こういう発想だ、というのが、わかりやすいインタビューではあります。
これは、レーニンもヒトラーもそうだったように、リベラルとか保守とかで違いがあるわけではなく、ヨーロッパ文明に深く根差している体質です。
日本社会は、保守であろうが左翼であろうが、このヨーロッパ的体質とは遠いところにいます。日本社会全体がヨーロッパ的体質になることは無理でしょう。
日本は、ヨーロッパと世界で覇を争えるような文明ではありませんが、やはり、本格的にヨーロッパ(+米国)と対決するのは中国でしょう。
インドは内向きだし、イスラームは一つの文明の体を成していません。
中国も、毛沢東のような人物が突然変異的に出てくる文明的仕組みはあるのですが、その人物が数百万人の流血の上にただ一人の皇帝になる、という仕組みなので、ヨーロッパとはやはり非常に異なっており、あそこまで「嫌われる勇気」が一般化する社会ではありません。正月2日目から、超濃厚なインタビューです。
世界が誇る「若き知性」であるブレグマンさんに、世界と日本の「今」をめぐるすべてをぶつけてみました。
世界情勢から、歴史を変えるイノベーション、欧米の若者たちの思想ムーブメント、利他、気候、そして日本の「希望」まで──。
この世代が持つ、ラディカルに実践的な「教養」ともいえる内容ですので、ぜひ、興味あるところからでいいので、じっくりご覧いただけましたら幸いです。前半に関しては腑に落ちる部分もありましたが、最後だけはダメですね、全く同意できない。
嫌われる勇気を持つことと、嫌われる行為に走ることは全くの別物。過激な行為が仮に1つ可能性を開く道があるとすれば、それは戦略的な飴と鞭が介在して民衆の心を導けるシナリオがある時くらいです。ただ実際はそんなケースはなく、過激な環境団体や主義者の多くは分断を積極的かつ一方的に生む。「何故スープ缶を絵画に投げないのか?」と聞かれたら、「何故スープ缶を絵画に投げるんだ?」と僕は真顔で聞き返すだけです。
分野は違いますが以前日本でもバリアフリー問題で伊是名夏子氏が大炎上していたのをふと思い出しました。目立つこと、主張を通すこと、そのシナリオは本当に共感を得たければバランスが必要です。しかし一度力で押し通して成功体験を得ると無思慮で繰り返す人がいて、結果最適解を失うことになる。そして反感を食らい失敗・後退する。あの一件なんかはまさにそうだったと思う。
簡単な道のりではないですが、交渉事に簡単な道なんて無いんですよ。結局緻密な設計と共感、そして規律を整えて外堀から逃げ道を無くして詰めて行くしかない。声を上げて仲間を集い、知恵出し合って戦略を練って、テーブルについて議論する。知恵と知能をもった人類がすべき事は、これに尽きます。
スープ缶投げつけても何一つ解決も改善もしません。嫌悪と反感の芽を産むだけです。