2022/11/30

シリコンバレー帰りの起業家はなぜ地方でビジネスを起こすのか

NewsPicks for Business編集長 / NewsPicks +d統括編集者
人口約1万6千人の農業のまち・宮崎県新富町は、民間企業・人材の活力を取り込んだビジネスの創出に力を入れています。その代表例の一つが、町を拠点にスマート農業を実践するスタートアップ企業・AGRIST株式会社です。

創業者の齋藤潤一さんは、米シリコンバレーでITベンチャー企業のダイナミックな経営を間近に見た後に帰国。東日本大震災を機に、「地方の持続可能性」をブランド化とビジネス創出によって追い求めようと活動してきました。

その過程で宮崎県に移住し、新富町にたどり着きました。シリコンバレーや震災などでの経験がなぜ地域でビジネスを起こす道につながったのか、齋藤さんに話を聞きました。(4回連載の第2話)
INDEX
  • シリコンバレーのITベンチャーで学ぶ
  • 「自ら挑戦」と帰国・起業も苦労続き
  • 持続可能でない地方の現状に関心
  • 東日本大震災が契機、地方創生に注力
  • 偶然重なり宮崎移住、新富町ともつながり

シリコンバレーのITベンチャーで学ぶ

AGRISTの創業者の齋藤潤一さんは1979年に大阪で生まれました。大手製薬会社に勤めていた父親は「仕事でずっと家にいなくて、土日に遊んでもらった記憶もない」(齋藤さん)。その“反動”からか10代の頃、同世代の友人の多くが目指していたような、大企業の会社員として終身雇用で働くのとは異なる生き方を「何となく思い描いていた」と言います。
関西大学の学生だった頃、いとこの家に泊まって遊んだ翌日に、そのいとこが交通事故で亡くなるという出来事がありました。齋藤さんは「人はいつ死ぬかわからない。自分がやりたいことをとにかくやり続けよう」と思うようになりました。
「世界を見たい」とバックパッカー旅行でアメリカを訪れたことを機に、大学を休学してサンフランシスコ近郊のコミュニティ・カレッジに留学。アップル創業者のスティーブ・ジョブズが非常勤講師をしていたという学校で、寄贈された最新のMacが使い放題だったそうです。そこでデザインやプログラミングなどを本格的に学びました。
シリコンバレー(SpVVK / iSock)
その頃にたまたま読んだ新聞記事で取り上げられていた、携帯電話向けの音楽配信サービスを手がけていたシリコンバレーのITベンチャー企業に興味を持ち、「あなたの会社は私を採用すべきだ」と書いて履歴書を送りつけました。すると「面白いやつだ」と気に入られ、インターンとして働くことになりました。
当初の仕事はCEOのアシスタントで、雑務中心。とはいえ、間近で見る、採用や資金調達、事業売却など、シリコンバレーの企業のダイナミックさと、経営者のスピーディーな判断に、齋藤さんは強烈な刺激を受けました。齋藤さんはカレッジ卒業後、この会社で約2年間、働きました。
齋藤 「2年働いて、10年分くらい学んだようなスピード感でした。CEOのそばにいたことで、経営に関しては、酸いも甘いも知ることができたと思います」
激しく人が入れ替わる環境で、最後の年にはデザインの責任者の「クリエイティブ・アートディレクター」に昇進していました。

「自ら挑戦」と帰国・起業も苦労続き

齋藤さんは、次第に「自分も起業してチャレンジしたい」と思うようになり日本に帰国。2006年にWEBデザイン制作事務所を東京で始めました。
シリコンバレーの会社では、自ら責任者として1万ドル単位のデザイン制作を外部の業者に次々と発注する立場だったため、「自分が受ける立場になれば儲かる」と思ったそうです。
とはいえ、最初から狙い通りにはいきません。
日本では実績がなく、クライアントとの“コネ”もなく、大きな仕事はなかなか受注できませんでした。SNSなどがまだ広まっていなかった当時、インターネットの掲示板を通じて1点1500円ほどのバナー広告を制作するなどしていたと言います。
次第に、WEBサイトや販促チラシの制作など、単価が少し高い仕事を取れるようになりました。ただ、短納期だったり手間がかかったりする依頼が多く、“薄利”の状況は変わりません。
当時暮らしていた東京都国分寺市内のアパートの一室では、カーテンを買う余裕がなく、冬は凍えるような毎日。駅前のスーパーの外で、弁当や惣菜が半額になるまで待つくらい、食費も切り詰めていたと言います。

持続可能でない地方の現状に関心

数年たち、キリンビールからウイスキーのブランドの広告制作を請け負ったことなどを機に同社からの受注が増えました。個人事業主から法人化を実現します。オフィスも国分寺市から武蔵野市の吉祥寺、次は港区の表参道と「ランクアップ」していきました。
東京・表参道(Moarave / iStock)
多忙な中で、齋藤さんが力を入れていたのが地方の産品に関する、地方自治体からのウェブプロモーションの仕事でした。大手のクライアントなどに比べると単価は安かったものの、まちおこしに貢献できることにやりがいを感じていたと言います。
齋藤 「大手の完成された商品やサービスと違い、地方自治体とはプロモーションサイトをイチから一緒につくることもありました。すると、『こんな素晴らしいサイトをつくってくれてありがとう』ってすごく喜んでもらえるんです」
地方に関わることへの関心が強まっていた一方、仕事で訪れる地方の大半が補助金など公金に頼っている実情を知ります。「地方の現状は持続可能ではない。これは問題だ」。次第に疑問を抱えるようになりました。
2011年に東日本大震災が発生。数カ月後、知人とボランティアで被災地の宮城県気仙沼市などを訪れた時、その惨状に大きな衝撃を受けたと言います。
東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県気仙沼市(2011年、中村信義撮影)
齋藤 「そこら中ががれきの山だらけで、その中に亡くなった人がまだ埋まってるかも知れないような状況でした。被災地のため、日本の地方のために、自分は何かできないのか。でも、何もできていない自分もそこにいて……。その瞬間、何かガラガラっと、自分の中で価値観が強烈に変わったんです」

東日本大震災が契機、地方創生に注力

震災後に人口流出が急速に進んだ被災地。巨額の税金で賄われた復興事業。日本の多くの地方の将来像と重なるような気がしました。
では、公金に頼らず、地方を持続可能にするにはどうすればいいのか。それにはやはりビジネスで地域にお金が回るようにしないといけないのでは――。
そんな問題意識から齋藤さんは2011年、社会課題の解決のための起業支援を手がけるNPO法人ETIC.(エティック)が主催する「ソーシャルベンチャー・スタートアップマーケット」に参加しました。これは社会貢献につながるビジネスを創出するためのプロジェクトで、齋藤さんは地方の伝統工芸品のブランディング事業で応募しました。
ソーシャルベンチャー・スタートアップマーケットでプレゼンする齋藤さん(提供・ETIC.)
齋藤 「アメリカに滞在していた頃から、日本の伝統工芸品はどれも素晴らしいのに世界でほとんど知られていないことを残念に思っていました。WEBとデザインの力で、もっと全国、世界に発信していけば、地方を盛り上げることにつながると考えたのです」
そしてこれを機に、齋藤さんは全国のさまざまな自治体で、伝統工芸品などのプロモーションやブランディングの活動にのめり込むようになります。
「東日本大震災後、ただお金を稼ぐのではなく、自分がどういう体験、生き方をしていきたいか、ということを考えるようになりました。地方の持続可能性を追い求めることで、地域の皆さんに感謝されるような活動に没頭したいと、思い至ったんです」

偶然重なり宮崎移住、新富町ともつながり

齋藤さんの宮崎県とのつながりもこの活動から生まれました。
別の地域の伝統工芸品の販路を開拓しようと、たまたま訪れた宮崎県日南市で、江戸時代から育成され、造船用に広く使われていた飫肥杉(おびすぎ)のことを知ります。木造船の需要が減ったことで林業も衰退していましたが、日南市は有志のデザイナーたちとタッグを組み、「obisugi design」というブランドで商品化した家具を売り出し始めていました。
洗練されたデザインに魅了された齋藤さんは、Facebookのページを自作して、デザイナーらからは承諾を得ずに飫肥杉の家具について独自に情報発信を始めました。するとたちまち2万人の“ファン”がフォローする人気ページに。
齋藤さんがつくった飫肥杉のFacebookページ
しまいには「この家具を買いたい」というファンも現れたため、obisugi designを“本業”で手がけるデザイナー側に連絡。そこで接点が生まれ、齋藤さん自身も飫肥杉のプロモーション活動に本格的に携わるようになりました。
これを機に齋藤さんは2011年、自身の拠点を宮崎市に移します。宮崎県内の特産品のプロモーションのみならず、県内各地で地元に根ざした起業家を育成するための勉強会などを主催するようになりました。
そうした活動を通じて接点が増えた宮崎県内の自治体の中に、宮崎市の北隣にある新富町がありました。まちづくり担当職員と知り合い、初回は単なるあいさつ程度でしたが、その数カ月後に改めてまちおこしに本格的に関わるよう懇願されました。
2016年秋から翌年にかけてのことです。この出会いが、齋藤さんが後に新富町で起業するきっかけとなったのです。
Vol.3に続く(12月3日配信予定)