為末大の未来対談 (1)

為末大の未来対談 第1回

コンピュータが“人智を超えた”医療を始める

2015/1/8
元陸上プロ選手である為末大氏が、科学・技術の分野の第一人者に、その人の思い描く「未来像」を聞きに行く。為末氏が見据えているのは2020年。陸上競技用の義足を開発する企業を設立し、東京パラリンピックで日本人の義足選手がメダルを獲ることを目指している。2020年、そしてその先の社会は、科学・技術の力によってどのように変貌を遂げていくのか。そこでに新たな常識、倫理、規範とはどのようなものか。人間はどこまで強く、優しく、賢くなれるのか。そしてテクノロジーでは解決できないものはなにか。未来への対話が、いま始まる。
第1弾は、東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長の宮野悟氏との対談を4回にわたってお伝えする。宮野氏の専門はバイオインフォマティクス(生命情報学)。遺伝子の全体を意味するゲノムなどの生命情報をコンピュータで解析し、個人の病気予防や治療に役立てようとする研究分野だ。とりわけ、宮野氏はバイオインフォマティクスの技術を駆使したがん研究を進めている。第1回はがん研究におけるスーパーコンピュータの果たす役割を取り上げる。

“ゲノムの病気”がんに仕掛ける情報戦

為末:宮野先生が、バイオインフォマティクス(生命情報学)の分野の研究をするようになったのは、どのような経緯からですか?

宮野:学生時代、九州大学で計算数学という分野の研究をしていました。でも、当時の数学といえば、数学のノーベル賞といわれる「フィールズ賞」の対象になるような、代数幾何や位相幾何が花形でした。

3年生の時、修士課程の先輩に「宮野くん、位相幾何なんて、これからは“落穂ひろい”の時代だよ。他人がやっていない分野を研究してみたら」と言われたのを真に受けて、読んできた本を全部捨てました。それで心が楽になって、情報科学の研究を進めようとしたら、数学の先生から「宮野くんのやろうとしている情報科学は、数学では落ちこぼれの人のためにあるような分野だぞ」と言われましてね。当時は、情報科学といった言葉すらあまり知られていない時代でした。

その後、1990年に、ゲノム情報を扱うゲノム科学の分野に入っていこうとすると、また周囲から「なんで、そんな分野に」と言われました。ゲノム科学も三流とされていたんですね。

でも、十数年経って、そう言っていた方々が、「いやぁ宮野くん、情報科学の分野は盛んでいいねぇ」とか「ゲノムって素晴らしいねぇ」とか言ってきたんです。

宮野悟(みやの・さとる) 東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長、DNA情報解析分野教授。1977年九州大学理学部数学科卒業、1985年から87年にかけて西ドイツ・アレクサンダー・フォン・フンボルト・リサーチ・フェロー、1987年西ドイツ・パーダーボルン大学情報科学科助手、1987年九州大学理学部附属基礎情報学研究施設助教授。1993年同教授を経て、1996年より東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター教授(現在まで)、東京大学大学院情報理工学系研究科教授を兼務。2014年より、東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長に。理学博士(九州大学)。2013年、国際学会International Society for Computational Biology (ISCB)で日本人初となるフェローに選出される。

宮野悟(みやの・さとる)
東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長、DNA情報解析分野教授。1977年九州大学理学部数学科卒業、1985年から87年にかけて西ドイツ・アレクサンダー・フォン・フンボルト・リサーチ・フェロー、1987年西ドイツ・パーダーボルン大学情報科学科助手、1987年九州大学理学部附属基礎情報学研究施設助教授。1993年同教授を経て、1996年より東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター教授(現在まで)、東京大学大学院情報理工学系研究科教授を兼務。2014年より、東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長に。理学博士(九州大学)。2013年、国際学会International Society for Computational Biology (ISCB)で日本人初となるフェローに選出される。

為末:研究の花を開かせたわけですね。

宮野:今は、ゲノムを活かした医療のための情報技術や、生命倫理の課題などに興味をもっています。

為末:医療の中でも、がんを研究対象にされていると聞きます。

宮野:そうです。がんは、次の三つの点から「ゲノムの病気」といえます。

まず、DNAが関係します。両親からDNAを受け継ぐことで、個人により異なる遺伝的要因が生じるわけです。

また、遺伝子の変異も関係します。私たちの命は、1個の受精卵から始まりますが、細胞が増えていくと、いろいろな環境要因によって、遺伝子に変異が蓄積していきます。これは、車にガタがくるようなもの。その変異が蓄積したDNAは「がんゲノム」と呼ばれています。

さらに、エピゲノムという構造も、がんの発生に関係しています。エピゲノムは、DNAがどう使われるかを制御する仕組みに関わっています。私たちの細胞内にあるDNAは、すべてが最初から読めるのでなく、ある年齢になるとある部分は読めるようになるといった仕組みがあります。雑誌のある部分が袋とじになっていて、ある時期が来るとそれがピッと切られてその情報が読まれるようなものです。でも、環境要因によって、まだ読まれてはならない袋とじの部分が読まれてしまったり、読まないといけない部分が閉じられてしまったりするのです。これも、がんを生じさせる変異のひとつとなります。

DNA、がんゲノム、そしてエピゲノム。これらの個人差が、がんの悪性度や治療効果、また副作用の出やすさなどを決めていることがわかってきました。だから「がんはゲノムの病気」といえるわけです。

その人のがんの特徴を知るには、その人の正常細胞とがん細胞のゲノム情報が必要になってきます。その情報を得るために、情報科学を駆使するのです。

為末大(ためすえ・だい) 1978年広島県生まれ。2001年エドモントン世界選手権および2005年ヘルシンキ世界選手権において、男子400メートルハードルで銅メダル。陸上トラック種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。シドニー、アテネ、北京と3度のオリンピックに出場。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2014年10月現在)。2003年、プロに転向。2012、25年間の現役生活から引退。現在は、一般社団法人アスリート・ソサエティ(2010年設立)、為末大学(2012年開講)などを通じ、スポーツと社会、教育に関する活動を幅広く行っている。著書に『諦める力』(プレジデント社)『走る哲学』(扶桑社新書)などがある。

為末大(ためすえ・だい)
1978年広島県生まれ。2001年エドモントン世界選手権および2005年ヘルシンキ世界選手権において、男子400メートルハードルで銅メダル。陸上トラック種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。シドニー、アテネ、北京と3度のオリンピックに出場。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2014年10月現在)。2003年、プロに転向。2012年、25年間の現役生活から引退。現在は、一般社団法人アスリート・ソサエティ(2010年設立)、為末大学(2012年開講)などを通じ、スポーツと社会、教育に関する活動を幅広く行っている。著書に『諦める力』(プレジデント社)『走る哲学』(扶桑社新書)などがある。

スパコンで“12億ピースのジグソーパズル”

為末:正常細胞とがん細胞のゲノム情報を得るために、具体的にはどうしているのですか?

宮野:スーパーコンピュータを使っています。

まず、生物のゲノム情報の読み取るシークエンスという作業をします。読み取り装置のシーケンサーでDNAを構成するA、T、G、Cの4種類の文字を読み取っていきます。しかし、その文字列は、シュレッダーにかけられたように断片的に出てきてしまいます。その断片は、正常細胞で9億ピース、がん細胞で12億ピースにもなります。そこで、9億ピースや12億ピースのジグソーパズルをつくっていくかのように、スーパーコンピュータで元のゲノム配列を推定していくのです。

これにより、どこにがん特異的な変異があるか、どこに「私」の特徴的なDNAの違いがあるかがわかり、「私」のがんの本当の“黒幕たち”を暴き出すことができるようになります。

為末:9億ピースや12億ピースのジグソーパズルづくりとは、スーパーコンピュータを使うとはいえ、わりと原始的なのですね。

宮野:まあ、原始的です。ハードディスクに対して膨大な回数のアクセスが必要になるため、通常の「京」などのスーパーコンピュータは、実はそうした作業に不慣れなのです。そこで、私どものヒトゲノム解析センターのスーパーコンピュータは、膨大なアクセス回数に耐えうる仕様にしています。その計算処理能力は、東京大学の別機関である情報基盤センターのスーパーコンピュータと比べて4分の1ほどしかありませんが、処理ジョブ数は我々のほうが2桁上回っています。小さな大量のジョブを処理場に投げ込むようにして計算処理しているのです。

東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター(港区)内に置かれたスーパーコンピュータ。室内は30℃以上。冷却のためのファンがうなり続ける。

東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター(港区)内に置かれたスーパーコンピュータ。室内は30℃以上。冷却のためのファンがうなり続ける。

為末:スーパーコンピュータで、がんは実際どのくらいわかるようになってきているのですか?

宮野:主要ながん約50種類については、ゲノムの変異のカタログがほぼできています。私どもも参加している国際共同プロジェクト「国際がんゲノムコンソーシアム」による成果です。ただし、対象となるのは、変異の出現確率が5%以上という、わりと頻出する変異です。今後は、出現確率1%未満といった、珍しい変異も扱えるようにしようとしています。

人工知能が個人の病気を診断する時代に

為末:個人のゲノムの特質からその人の病気の傾向を診断するということですが、その行く末には、どんなことが視野にあるのでしょう。

宮野:将来的にやりたいのは、患者さんの全ゲノムを解析することによって「この人にはこの薬を」といった治療法を確立することです。

現状では、例えば「乳がんに対してはタモキシフェン」といった具合に、臓器別に薬がだいたい決まってます。一方、「どういう病歴をもつ患者にどんな治療をしたら、どんなことが有効だった」という医療的なビッグデータとともに、患者さん個人の全ゲノム情報やタンパク質の解析結果、さらに代謝物質の計算などを組み合わせて、その人にとって最適な薬を出すという状況を実現したいのです。

その作業は、もはや人智を超えたものになると思います。実はアメリカが、すでに手を打ち始めています。クイズ王を負かしたことで有名になったIBMの人工知能「ワトソン」に、がんについての質問をするのです。がんゲノムの読み取りをすると、正常細胞のゲノムと300万箇所ほど異なる部分が出てきます。その中から、この人のがんの原因になっている部分はどれかを確率的に導き出し、的確な治療法を示唆するわけです。

為末:それは、ワトソンに治療法を聞くということですか?

宮野:最後に診断をするのは医師です。でも、ワトソンによる検査結果を見て、「よし、ではこの薬を」と言うだけになります。

為末:将来的には、病気の情報を集めてきて、それらをスーパーコンピュータで解析して、「自動製薬」をするといった可能性もありそうですね。

宮野:あると思います。いまも理論的に考えられる化合物の膨大な組み合わせの中から、可能性の高いものを選んで、合成経路も導き出すための研究を、スーパーコンピュータを使って行っている研究者はいます。

ビッグデータとスーパーコンピュータが一緒になって、新しい治療や創薬の方法が編み出されるといった世界が、もう10年先には来るのではないかと思っています。

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(構成:漆原 次郎、撮影:風間仁一郎