また、大学から送られてきた国際カミングアウトデーの説明は以下の文章でした。 “It’s a day to raise the visibility of queer people in our community and celebrate them.” これ自体もなにかしらの文章からの引用らしいのですが、クィアの人達の認知度合いをあげて、祝福する日、という意味合いのようです。たしかに投稿にはクィアの視点は含まれていないように感じます。 少し言葉遊びみたいになってしまいますが、Coming outって言葉もなんだか嫌だなぁと思ったりもします。本来隠さないと「いけない」もの、Come outするではなく、個人の意思の元で引き出しのように出し引き出来るような概念であるべきだよな、なんてことも思いました。
それにしても言葉狩りで叩く文化ももうウンザリですね。
マーケティングが未だに戦争用語を使っていることについて指摘していて同じくドキッとした記事も思い出しましたので参考まで。
https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00704/00010/
また、大学から送られてきた国際カミングアウトデーの説明は以下の文章でした。
“It’s a day to raise the visibility of queer people in our community and celebrate them.”
これ自体もなにかしらの文章からの引用らしいのですが、クィアの人達の認知度合いをあげて、祝福する日、という意味合いのようです。たしかに投稿にはクィアの視点は含まれていないように感じます。
少し言葉遊びみたいになってしまいますが、Coming outって言葉もなんだか嫌だなぁと思ったりもします。本来隠さないと「いけない」もの、Come outするではなく、個人の意思の元で引き出しのように出し引き出来るような概念であるべきだよな、なんてことも思いました。
重々しいカミングアウトしか認められない雰囲気だと、かえってLGBTQの方々もカミングアウトしづらいのでは?
以前、お話を聞かせていただいたLGBTQの当事者の方は「思い悩みながら、苦しみながら、長い年月をかけて、やっと”カミングアウト”することが出来た」と語っていました。この方の語りを思い出しながら、記事内で触れられていた「言葉の重みを奪わないでほしい」という花王に対する批判は「その通りだな」と思ってしまいました。
今後、時代が進む中で、「カミングアウト」という言葉が当事者および周りの人々の間で、どのように扱われ、語られていくは予想ができません。ただ、「カミングアウト」という行為の裏にある背景や出来事は決して忘れてはいけない、改めてそのように思いました。