2022/10/14
自然に従い「35km自給圏」で事業を生む。北軽井沢流フィールド・ビジネスとは
全国の各地域には、都市部とは異なる資源を活かすことで、自らの事業のみならず、地域全体のポテンシャルを底上げしている経営者がいる。
そんな共存共栄を実現している新しいスタイルの“地方の虎”を、稀人ハンター・川内イオが発掘するシリーズ連載。
#3では、長野県・北軽井沢でなにもない荒野に日本トップの人気キャンプ場を創り上げ、その「35km圏内」にあらゆるフィールド事業を創り続ける虎を追う。
そんな共存共栄を実現している新しいスタイルの“地方の虎”を、稀人ハンター・川内イオが発掘するシリーズ連載。
#3では、長野県・北軽井沢でなにもない荒野に日本トップの人気キャンプ場を創り上げ、その「35km圏内」にあらゆるフィールド事業を創り続ける虎を追う。
INDEX
- 「樹を植える男」のキャンプ場
- 「もっと広い世界に飛び出したい」と東京へ
- 4億5000万円の個人負債
- 儲かると思えなかったキャンプ事業
- いかに人の「魂の躍動」を作るか
- 人気キャンプ場ランキング1位に
- 企業理念「ルオム」を定める
- 「冬キャンプ」の衝撃
- 地域資源活用工場と製材所を立ち上げ
- 自伐林業による6次産業化
- 視界をクリアにする35km自給経済圏
- 焚火を中心にしたコミュニケーション
「樹を植える男」のキャンプ場
軽井沢駅から車で約30分。浅間山の中腹を南北に走る一本道を抜け、北軽井沢に入ると避暑地のリゾートから緑豊かな景色に変わる。
落ち着いた雰囲気の北軽井沢に、最大で年間10万人を集める施設がある。日本一と評されることも多いキャンプ場「北軽井沢スウィートグラス」がそれだ。
アウトドア情報誌『GARVY』の読者が選ぶ人気キャンプ場ランキングで4度の日本一に輝くなど、キャンプ好きなら知らぬ人はいない存在だ。
小川が流れる3万坪の敷地には、10人宿泊できる大きなコテージ、ツリーハウスのキャビンなど50戸の多彩な宿泊施設と、102個のテントサイトがある。お湯が出る炊事場、薪ボイラー式の家族風呂、ドッグランや商店を兼ねたカフェなども備えるほか、子どもの遊び場も充実しており、取材日は9月中頃の平日だったにもかかわらず、家族連れから若者グループまで幅広い客層が利用していた。
スウィートグラスにはたくさんの樹が生えていて、ぶらぶらと歩いているだけで気持ちいい。一見、山深い森の中を切り開いて作られた場所にも見えるが、実際にはその逆だ。
キャンプ場が開かれた1994年以来、同施設を運営する「有限会社きたもっく」創業者の福嶋誠が、不毛の荒野にこつこつと3000本の樹を植えることから始まった手作りの景観なのだ。
北軽井沢の森で養蜂したり、240ヘクタールの山林を購入して新しい林業を始めたり、限界集落の再生を始めたりと、福嶋の取り組みはさらに広がっている。フィンランド語で「自然に従う生き方」を意味する「ルオム」を企業理念に掲げる福嶋が目指すものとは?
「もっと広い世界に飛び出したい」と東京へ
福嶋家が北軽井沢に居を構えたのは、戦後のこと。福嶋の祖父が家族を安全なところに移そうと、大正12年、浅間北麗で最初に開発された別荘地である、一匡邑に移住したのが始まりだ。その息子(福嶋の父)が戦後の入植活動を経て北軽井沢に定住し、1951年、浅間山の麓で福嶋が生まれた。
「このあたりは、今なら信じてもらえないような世界でしたよ。マイナス20度から25度にまで冷え込む冬場、朝起きると頭の上に雪が積もってるんです。ふぶく日が多くて、そうするとバラックみたいな家なので、隙間から雪が絶えず家のなかに舞い込んでくるんですよ。
春から秋は、山で過ごしました。子どもだから甘いものが欲しいんですけど、外で取ってくるしかないから、山ブドウとか、キウイの原種みたいな木の実を取って食べていましたね」
中学まで北軽井沢で過ごした福嶋は、その頃から「こんなところに絶対いたくない。もっと広い世界に飛び出したい」と思うようになっていた。地元を離れ、下宿から通った遠方の高校を卒業すると、願い叶って東京の大学に進学。1年も経たずに中退した後は、各地を転々として過ごした。
27歳の頃、千葉で印刷会社を起こす。まったくの未経験からのスタートながら、そこに抵抗はなかった。この「なにもないところに飛び込む」スタイルが、その後の福嶋を形作っていく。
印刷会社はそれなりにうまくいったが、業界の慣習もあって夜遅くから朝方まで働かなくてはいけないのが、気に入らなかった。すでに結婚していたこともあり、「昼夜逆転の生活は人の生き方として良くない」と感じた福嶋は会社を手放し、1990年、39歳の時に故郷の北軽井沢に戻った。
4億5000万円の個人負債
福嶋の父が営んでいた不動産業は、福嶋が千葉にいる頃から経営が悪化。そのため福嶋は借金の整理に追われたが、特に仕事を決めないまま帰郷したこともあり、父親の不動産業(宅地建物取引業)の免許を受け継ぐことにした。
1994年、再び、未経験の事業に着手した。不動産デベロッパーとして出資者を集め、北軽井沢に店舗を集積したショッピングプラザを作ろうと動き始める。今度は、うまくいかなかった。
「小売業のことも、商業施設のこともなにも知らないのに、不動産免許があるからやってみようと始めたんですけどね。非常に無謀でした」
完成したショッピングプラザは当初、年間90万人を集客し順調に売り上げを伸ばした。しかし、バブル崩壊後に100円ショップやお酒のディスカウントストア、ファストフード店などが急速に店舗を増やし始めるなか、マーケットの変化についていくことができず、2000年代半ばに破綻。負債総額7億円超、連帯保証人債務に伴う負債も約4億5000万円に達した。
実は、この事業と並行して1994年にスタートしたのが、キャンプ場・スウィートグラスだった。もともと父親が所有していた3万坪の牧草地をキャンプ場にして、アメリカからログビルダーを招き、5棟のログハウスを建てた。
浅間山は1108年と1783年に大噴火を起こしており、牧草地のあたりの土壌は火山礫、灰、小石で分厚い層になっている。酸性土壌で保水性も低いため、牧草でさえもほかの土地に比べると3分の1程度しか育たず、使い道がなくてキャンプ場にしたそうだ。
儲かると思えなかったキャンプ事業
開業当初は草が生えているだけの広大な空き地で、目の前に迫力ある浅間山がハッキリと見えた。せめてその雄大な景色を楽しんでほしいと思ったが、想像以上にお客さんは来なかった。そこで、景観を作ろうとグランドデザインを描いて樹を植え始めるも、土壌の影響で瞬く間に枯れた。
「自分でやってもダメだから、お金もないのに植木屋に頼んで300本植えてもらったんですよ。植木屋は『これで大丈夫』と言っていたけど、1年でぜんぶ枯れました」
創業当初のスウィートグラスの敷地。植物の育ちづらい荒れ地に植樹をはじめた。
やっぱり自分でやるしかないと本を読んだり、人に聞いたりしながら植樹しても、軒並み枯れる。それでも、お客さんを呼ばないと食っていけない。アメリカから6棟のインディアン・ティピを取り寄せたり、後に施設長となる稲垣豊をスカウトして、社内スタッフで「北欧ログキャビン」を5棟建てるなど、施設を少しずつ拡充させたことで、客数は増え始めていた。
そのタイミングで、ショッピングプラザの経営が悪化。福嶋は図らずもスウィートグラスの経営に注力するようになった。
「趣味みたいにやっていたスウィートグラスが事業として儲かるなんて、まったく考えていませんでした。でも、キャンプ場の経営にがっつりシフトして、この事業をやり切らないと、自分がここで生きてゆくのは難しいと思いましたね」
福嶋がアメリカからログビルダーを呼んで建てた、最初のキャビン。まだ現役で使用されている。
福嶋は2000年4月、スウィートグラスの運営会社として「有限会社きたもっく」を設立。この数カ月後、アメリカのオートキャンプ場団体の招待で、同業者とともに現地のキャンプ場へ視察に行ったことが、大きな転機になる。
いかに人の「魂の躍動」を作るか
アメリカのアウトドアは一大産業で、フランチャイズ化が進んでいた。広さにしてもインフラにしても投資の額と規模が違い過ぎて経営面で参考になることはなかったが、キャンプ場に来ていたお客さんの様子を見て気がついた。
「当時の日本のキャンプ場は、ボーイスカウトのような教育キャンプの意味合いが非常に強くて、設備の整っていない環境に耐えるのが当たり前でした。そのハードルを下げないとビジネスとしてのアウトドア業界は定着しないというのは、一緒に行った人たちの共通認識でしたね。キャンプ場に来たお客さんが少しでも長い時間フィールドにいられるように考えなきゃいけないと実感しました」
かつて「教育」色の強かったキャンプは、現在レジャーとして一大ブーム化している。
簡単にハードルを下げるひとつの手は、炊事場やトイレなどの設備をきれいにすることだ。しかし、福嶋には投資する資金がない。そこで、大胆に発想を転換した。
「この場所で、いかに人の魂の躍動を作るかだと考えました。お客さんだけでなく、スタッフも一緒になって躍動する場にすれば、結果的にお金がついてくると考えたんです」
教育キャンプが耐え忍ぶ訓練だとすれば、スウィートグラスはその対極にある、人の心が弾む瞬間を作ることに注力した。
例えば、子どもたちが2チームに分かれ、水鉄砲で相手の的を狙う「ウォーターバトル」、ネイチャーガイドの案内で夜の森を探検する「夜の森スターライトウォーク」など、当時、ほかのキャンプ場では珍しかったエンターテインメント性の高いイベントを導入した。
福嶋が「当時のスウィートグラスはアウトドア系ディズニーランド」と呼ぶこの策は、大ヒット。会社を設立する前、年間3000万円程度だった売り上げが大きく伸びるきっかけになった。
人気キャンプ場ランキング1位に
スウィートグラスに「躍動」が生まれるのと時を同じくして、まさかの出来事が起きる。その頃、まだ植林がうまくいかず、破れかぶれになった福嶋が、もうどうにでもなれ! と手元にあった複数の樹木をまとめて1カ所に植えた。すると、なぜかうまく根付いたのだ。
福嶋はこの時、「樹はお互いに競争もするけど、支え合っている。樹も1本じゃ生きられないんだ」と胸に刻んだ。
「混植」に成功すると、福嶋は不毛の大地にひたすら樹を植えていった。そうするうちに、少しずつ「森」ができ始めた。
「お客さんが少しでも長い時間フィールドにいられる場」は、「居心地のいい場所」でもある。増えていく樹々が木陰を作り、そよ風を呼び込むようになるとその場に「潤い」が生まれ、エンターテインメント以外の魅力も高まっていった。
さらにお客さんを惹きつけるきっかけになったのは、宿泊できるツリーハウス「ツリーハウス・マッシュルーム」の誕生だ。
2005年、施設長の稲垣豊のイマジネーションから生まれた、童話の世界から飛び出したようなツリーハウスがデビューすると、宿泊予約が殺到するようになった。「ツリーハウス・マッシュルーム」は今も予約でいっぱいの一番人気で、スウィートグラスを象徴する存在になる。
スウィートグラスの名物施設であるツリーハウス。
この追い風を受けて、稲垣は敷地内にいくつかのツリーハウスを作った。森のなかに溶け込むツリーハウスはそれ自体が静かに「躍動」しているようで、大人も子どもも魅了した。稲垣を中心にキャビンやコテージの増設も進むなか、お客さんは右肩上がりで増えていった。
その満足度の高さは、2009年、アウトドア情報誌『GARVY』の読者が選ぶ人気キャンプ場ランキングで初めて1位に選ばれたことからもわかるだろう。ちなみに稲垣は、今ではツリーハウスデザイナーとして日本でも有数のビルダーになっている。
企業理念「ルオム」を定める
2010年には売り上げがおよそ1億円に達し、10年で倍増。経営が軌道に乗ったところで、福嶋はひとつの決断をした。
「ルオム―自然に従う生き方―」を企業理念に定めたのだ。
これは、2004年9月の浅間山の噴火が影響している。この時、一気に客足が遠のいたのだが、福嶋の頭をよぎったのは経営のことではなく、「せっかく定着した樹が、またぜんぶ枯れるのか?」だった。
不毛の地に森を作ったことで周囲から評価され、「自分は環境にいいことをしている」と自負していた福嶋は、1度の噴火で自分の努力が無に帰すという事実を突きつけられて、ひどく困惑した。
そして、1108年と1783年に大噴火を起こした浅間山が、そのたびに麓を「ゼロ」にしてきたことを考えれば、いつ3度目が来て、振り出しに戻る日が来てもおかしくないと実感した。
──それでも、俺は生まれ故郷で生きていく。さらに樹を植え、森を作っていく。そのためにはなにか指針が必要だ、それはなんだ?──
何年も考え続け、2009年に出会ったのが、フィンランド語の「ルオム(自然に従う生き方)」だった。
「日本国籍を持つフィンランド人、ツルネン・マルティさんから教わったんですよ。自分の想いをどう表現していいかわからないっていう話をしたら、フィンランドにあるよって。フィンランドでは、オーガニック製品の認証にもルオムが使われているぐらいよく使われている言葉と聞いて、うちの会社にピッタリだと思ったんです」
「冬キャンプ」の衝撃
「ルオム―自然に従う生き方―」という言葉に出会ったことで、福嶋のなかでやるべきことが明確になった。これが後押しとなり、また誰も想像しない手を打つ。2012年11月より、それまで全国どこのキャンプ場でもやっていなかった「冬キャンプ」を始め、通年営業に踏み切ったのだ。
それまではゴールデンウイークと夏休みにお客さんが集中し、9月に入ると閑古鳥が鳴く状況だった。この体制だと、スタッフの通年雇用ができない。毎年、最盛期に備えてたくさんのアルバイトを雇って夏が過ぎるたびにゼロに戻る状態では、イベント会社と変わらない。
現在は広まっている「冬キャンプ」も、かつては一般的ではなかった。
また、夏に蓄えた利益をキャンプ場が閉鎖する冬場に使わざるをえないのも、歯がゆかった。スウィートグラスをさらに成長させるためには、通年営業して社員を雇い、育てることが必要だと判断したのだ。
「収益が上がる、上がらないというよりも、通年営業をすると宣言する以外にありませんでした。キャンプ場は夏のレジャーという常識が支配しているので、冬にキャンプ場を開いてうまくいく根拠を示せと言われてもありません。やってみるしかない」
福嶋は、冬キャンプを始める前にすべてのコテージ、キャビンに薪ストーブを設置した。この薪ストーブの炎がお客さんの心を捉えると信じていた。
「外がマイナス20度になっても、部屋のなかに薪ストーブがあって、部屋が暖かくなっているとものすごく幸せなんですよ。それはもう、子どもの頃から知ってますから。薪ストーブでお餅なんかを焼いて食べると、格別にうまいわけですよね。そういう北軽井沢の冬の豊かさ、楽しさがあるんだから、それを作り出せば喜んでもらえると思っていました」
2012年の冬、「365日楽しめる北軽井沢」をキャッチコピーに冬の営業を開始。ふたを開けてみると、驚くほどたくさんのお客さんがやってきた。なかには、薪ストーブのあるコテージやキャビンに泊まらず、キャンプサイトでテントを立てて泊まる人たちも現れた。
「ルオム」を意識してこれまで日本に存在しなかった「冬キャンプ」のマーケットを切り開いた福嶋は、これを機に「自然と人の関わりや北軽井沢での暮らし」を意識した事業に乗り出していく。
地域資源活用工場と製材所を立ち上げ
冬キャンプが人気になり、薪ストーブで使用する薪が大量に必要になったことから、2014年、地域の山主と連携して、地産材の買取を開始。翌年、新事業部「あさまの薪」を設立し、地域での受注販売が始動した。
2019年には、駒髪山・氷妻山・鼻曲山にまたがるエリア、面積約240ヘクタールに及ぶ通称「二度上山(にどあげやま)」を取得。この山の購入は、福嶋が普及に力を入れている「アーボリカルチャー(木と人が豊かな関係を築くための総合的学問)」の一環で、山主の許可を得て樹の伐採などを行っていたのが縁になった。
「山を持っていてもたいしたお金になるわけじゃないし、“お前たちが物好きにそんな一生懸命やってるなら譲ろうか”と山主さんに言われまして。その方が、そんなに高いことは言わないし、分割払いでもいいということで購入しました」
材木としての埋蔵量が約3万トンに達するこの山の木材を活かすために、2021年、地域資源活用工場「あさまのぶんぶんファクトリー」を立ち上げ。さらに今年、このファクトリー内で多品種少量生産が可能な製材所「木挽(こびき)ラボ」を稼働させた。
ラボでは、二度上山などで伐採した広葉樹とカラマツを中心に製材し、木材を薪や建材、家具材として加工。ファクトリーでは、廃材を活用する薪ボイラー式高効率薪乾燥機を自社開発し、含水率の低い薪を短期間で製造するだけでなく、製材した木材の急速乾燥にも使用している。
ファクトリーとラボによって、木材の計測・仕分け・製材・乾燥・仕上げ加工を行い、家具・建築・薪などにすることができる林産加工場が完成したのだ。
自伐林業による6次産業化
ファクトリーとラボはすでに本格稼働しており、現在、「あさまの薪」は販路を軽井沢、御代田町、北軽井沢、長野原町、嬬恋村にまで拡大。薪の年間販売量は約1500㎥(2021年実績)だが生産が足りておらず、今後、増産を計画している。福嶋は「近い将来、日本一の薪製造会社になる」と話す。
スウィートグラスで最も新しい10人宿泊可能なコテージ2棟でも、浅間育ちのカラマツ材をふんだんに使用するなど、木材の地産地消が進む。
二度上山では、2019年春から養蜂もスタート。樹を伐採して日の光が入るようになった遊休地に、蜂箱を置いている。このハチミツを販売しているほか、地元の事業者とコラボしてハチミツを使った蜂蜜酒、蜂蜜ビールを製造。これが群馬県6次産業化チャレンジ支援事業 1位に選ばれた。現在では年間3トン以上のハチミツがとれていて、今後も地域の事業者とさまざまなコラボを予定する。
二度上山での養蜂で生まれた無添加ハチミツは「百蜜」ブランドで販売を展開。
「一般的な林業の場合、山主さんがいて、樹を切る人がいて、運び出す業者がいて、製材所があって、製品にして加工して、細かく流れが決まってるじゃないですか。その分業の体制が必ずしもベストではなくて、結果的に外材にシェアを取られましたよね。
私たちは、樹を伐るところから製品に加工するところ、樹を伐った後の山の活用まで一貫する自伐林業をすることで、林業の6次産業化を目指しているわけです」
視界をクリアにする35km自給経済圏
キャンプ場の経営から派生して、樹木にまつわる事業を次々と立ち上げてきた福嶋が目指しているのは「35km自給経済圏」だ。
35kmとは、一つの山を起点にした自給圏の合理的な距離だという。自由にマーケットを拡げるのではなく、あえて距離の制約をつけることがルオム企業のやり方だと福嶋は語る。
「同じ自然と環境を共有している35km圏内の地域に限定することで、僕は初めて循環のイメージが湧くんですよ。群馬、関東、日本と規模が大きくなるにつれて、ぼんやりしませんか? そして、35kmという制約をかけることで生み出される新しい事業や可能性があると確信しています」
35km圏内でなにができるか。常に思考を巡らせている福嶋が最近注目しているのは「限界集落」だ。
総務省は2020年3月、65歳以上の高齢者が人口に占める割合が50%を超えた「限界集落」は2万372カ所と発表した。これは5年前から10%増加しており、このうち、10年以内に集落が無人化する可能性があると回答したのは454集落にのぼる。
こういった限界集落に事業のチャンスが眠っているとみる福嶋は、もう動き始めている。北軽井沢から車で15分ほどのところにある、狩宿と呼ばれる小さな集落。かつては約30世帯が住んでいたが、今は高齢者が数人のみという限界集落で、福嶋率いるきたもっくが地域の木材を使用した家を建てた。ここに従業員が移り住み、これまでにない経済循環のヒントを探す。
いま福嶋が描いているのは「限界集落×有機農業」だ。
「農林水産省は2050年までに有機農業の農地を全体の25%に増やすと言ってますよね。限界集落は人が少ないので、水も農地もきれいなところが多い。今ある農地を有機農業に変換するのは難しいのだから、限界集落で耕作されていない農地で有機農業をすればいいでしょう。水にまつわる事業も考えられますよね。
日本では農業と林業が分業化をして近代産業になっていきましたが、農業と林業が一体になっている新産業が生まれる可能性だってあるわけです」
限界集落で新規事業を考え、家を建てて従業員を送り込んでいる経営者は、ほかにいるだろうか? また誰もやっていないことを始めるんですね、と言うと、福嶋はニコリと笑った。
「ゼロからやるのが好きなんですよ。なんでそういう人格になったのかといえば、それは風土です。ここには、絶対的な支配者である浅間山がある。今も活火山だから、2000年に3回ぐらいの頻度で大噴火してぜんぶゼロに戻すでしょう。それが怖いのではなくて、ゼロから活力を生み出そうという気持ちが強いんですよ」
焚火を中心にしたコミュニケーション
埋もれた市場やニーズを炙り出してきた福嶋が、新たに手掛けているのは「TAKIVIVA(タキビバ)」。2020年9月、スウィートグラスの隣りの敷地にオープンした、焚火に集う宿泊型ミーティング施設である。
長年、スウィートグラスの経営に携わり、現場で利用客の様子を定点観測してきた福嶋は、「キャンプ場は家族再生の場」と指摘する。
日常生活ではそれぞれの用事を抱え、バラバラに過ごすことが増えている家族が、キャンプに来ると共同作業をして笑顔になる。焚火を囲み、日常の雑事を忘れて語り合う。この非日常のコミュニケーションが家族をつなぎ合わせるのだ。
再生する家族を見てきた福嶋は、このコミュニケーションを組織に応用しようと考えた。そうして誕生したのが、タキビバだ。
「仕事は基本的に対面でしますよね。でも焚火をする時は、向かい合うにしても火を挟むし、隣りの人も火を見ています。誰も直線的な対面にならず、火を見ながら人の気配を意識する。こういう距離感って現代社会では失われているんですけど、気配で存在を感じながら、互いに大事にし合うという関係性は、 現代社会で求められているものじゃないかと思うんです」
焚火が中心にあるからこそ、できる会話がある。気づけることがある。立場を超えた柔らかな横のつながりが生まれ、そこから発見が生まれる。タキビバを開業して2年、利用者たちがその効用を認め、リピーターが続出しているのを見て、福嶋は焚火事業の成功を確信している。
これまで若者グループか家族連ればかりだった北軽井沢に、さまざまな組織の社会人がグループで集い始めている。ここで組織が再生されるように、日本の地方もまた再生可能だと福嶋は考えている。
「地方の時代というより、地方にしか可能性が残ってないと思っています。山林や農村を含め、地方の素材にこそ可能性があると強く感じますね。
35km自給経済圏のように、なにかしら制約を加えることで、その地域や社会が抱えてる課題が明確に見えるということを知ってほしいです。
その課題を対面で見るのではなく、視点を変えることでチャンスが生まれるはずですよ。この取り組みこそ、行き詰まった日本の未来を救うんじゃないかな」
執筆・撮影:川内イオ
写真提供:きたもっく
デザイン:田中貴美恵
編集:呉琢磨
写真提供:きたもっく
デザイン:田中貴美恵
編集:呉琢磨