【国際比較】勝てないエリート教育
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ものすごく耳の痛い記事です。記事の言うとおり、特に日本のエリート教育が個人の利益となり受験が「典型的な『共有地の悲劇』(個人として合理的な選択が全体の損失につながること)」という点や、日本の教育レベルが低くはないという点に納得します。
ただ少なくとも私が学んだ学校は学力重視ではありませんでした。大学に入ってからも改めて、日本でも首都圏私立校をはじめ最難関校の多くは必ずしも受験教育を最重視しているわけではないことを実感しました。むしろ学力に余裕があるからこそ、生徒個々人の個性を引き伸ばしてくれその強みに互いが敬意を払えるような環境がそこにあるように思います。
とかく教育を語るとき、多くの人が「日本の」教育と括って主語を大きくしがちだと感じます。たしかに自分の受けてきた教育の経験をもとに議論をされるのは理解できますが、地域も学校も違えばその内容は全く異なるはずです。日本のエリート校が学力重視の均質な集団で個性を伸ばす教育ではない、という主張は必ずしもこの記事でされていない点に留意してほしいと思います。「対人スキル」というのは、社会によって違います。日本の中でも細かく分かれています。
ビールを注ぐときにラベルを上に向けるとか、ヤクザ式の目上へのあいさつの仕方とか、外から見れば何の生産性も無く、その社会の外に出れば何の価値もないものばかりです。
その社会の外に出れば、ただの奇習です。そういう「対人スキル」を自分の存在意義のより所にしている人たちは、世界中にいます。
米国と英国の強さは、彼らの「対人スキル」も、もともと英国の宮廷(デンマークやフランスから攻めてきたヴァイキングとかの)でやっていたローカル・ルールに過ぎないのですが、それを軍事力と産業革命と近代国家制度の力で、世界の主要な舞台で必須の「対人スキル」にしてしまったことです。
国連だろうとダヴォス会議だろうと、ウォール街だろうと、求められる「対人スキル」はこのタイプのものです。そういうところに出ると、日本式の「コミュニケーション能力」は、意味不明の奇習になります。空気を読んで気配りする術を発揮しようとしても何かモジモジモグモグしているやつとしか見られません。
インドの上流階級や、シンガポールのエリートにしても、学力に加えて、この「対人スキル」を身につけなければ、米国のIT企業の下請け以上の仕事は回ってきません。
「対人スキル」はただの文化で、優劣も、生産性の違いもありません。強者の文化であるかどうかです。
中国にがんばってもらって、中国の天下になれば、儒教式「対人スキル」とかが強者の文化になり、日本人などには適合しやすいでしょう。
問題は、現在はアングロサクソンの文化(一応、「多様性」に配慮しているようなポーズはしていますが)が強者の文化なので、それを骨の髄まで身につける子育てをするかどうかです。
「英語を話せる」だけではダメで、シェイクスピアも諳んじるまで読んで、社交の場などで引用できるまで身につけた方がいいでしょう。聖書も暗記できるくらい読み込んで解釈できた方がいいでしょう。SDGsとかスローガンで言っているだけだと、一目で底の浅さが見抜かれます。
アングロサクソンの「対人スキル」はどうしたって日本には普及しないので、日本の外で生きていくことが前提になります。生涯所得は増えるかもしれないし、増えないかもしれません。研究室のブログでも何度か触れたのですが、この問題はそもそも「エリート」とは何かという点を含めかなり深いと思います。私がアメリカにいたのは1992-94,96-2010なので少し古いかもしれませんが、さすがに「米国の教育は、学力をターゲットにしてない可能性があります」は言い過ぎで、むしろ「米国の教育は、学力は必要条件にすぎない」と言ったほうがいいと思います。だからこそトップの大学はSATはほぼ満点ばかりの受験者の中でリーダーシップやボランティア経験などが見られる。日本の「エリート」がクイズ番組で勝って喜んでいるのを見ると泣きたくなります。
御参考
https://shimizu-lab.jp/blog/5654.html
https://shimizu-lab.jp/blog/5712.html
https://shimizu-lab.jp/blog/5721.html