【国葬】東西の公葬を通じて、私たちが学んだこと
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今回の国葬を本気で考えるならば、賛否の議論、それから派生する国葬の在り方の議論だけでは全く不十分だと思います。
安倍前総理が現職中における、マスコミ特に朝日新聞の論理的にも倫理的にも常軌を逸していると思える安倍タタキ(暗殺後に朝日新聞に掲載された所謂安倍川柳も同様に常軌を逸していたが)、戦時中そして戦後の共産主義の蔓延と現在まで続くマスコミの在り方など、安倍前総理暗殺後、生前、戦後、戦時中に渡って、政治/イデオロギーの対立とマスコミの在り方の文脈において考えることができなければ、目の前の国葬の議論がなぜ起こっているのかということについて、所謂マスコミが報道するような「コストと国葬とする基準の問題」といういわば植え付けられた表層的な問題意識しか持てないでしょう。
注目のコメント
取り上げて頂きました。私は「賛否」の問題よりも、過去の公葬で何が問題、論点になったのかについてよく整理された研究ノートの内容を取り上げました。やるやらないを決定すれば、賛否は必ず発生します。
したがって重要なのはそこではなく、議会制民主主義の国として何を議論すべきなのかという点です。また、本件は過去の蓄積があるため、最低限、過去にそうした問題として指摘されたことについては、どうすべきかということは議論が必要でしょう。議会や内閣法制局といった立法や法律の運用が論点となっていました。今回は、そうしたことをしっかりと整理して行われたのでしょうか。そして、各メディアはそうした視点から検証を行ったのでしょうか。「賛否」に注目しすぎて、本質をみていなかったのではないでしょうか。
これが私の問題提起です。
ちなみに、今、シンガポールでは初代首相のリー・クワンユーのミュージカルLKY Musicalが上演されていて2回鑑賞しました。リー・クワンユーは国葬でした。ほぼフルハウスの客足。いち政治家をモチーフにしたミュージカルに国民が足を運ぶ。そうした光景をどう見るか人それぞれですが、その功績を感じる表現の手法として興味深く鑑賞しました。ミュージカルの質として非常によかったです。日本人的には凄惨な植民地支配が描かれ、少々居心地が悪かったですが(「親日」とよく言われますが、こうした歴史的な事実はよく描かれますし、街中に日本軍が使用したなんとかという建物を説明する看板は結構あります)開催の賛否で論争となった安倍元総理の国葬が過ぎ去りました。
かつて祖父が他界したとき、新人記者だった私は、初任地の金沢から忌引で実家に帰省しました。それまで会ったことがない親類や祖父の友人らが葬儀に参列するなか、悲しんでいた私に、母がこう言いました。「お葬式は、亡くなった人が、日頃はなかなか会えない人同士を会わせてくれる」。妙に心が落ち着いたのを今も覚えています。
私信の文章は、こうして自分語りで、ある程度の自己開示をしながら書くことで、はじめて読み手に関心を持ってもらえる面があります。岸田さんと菅さんが安倍さんによんだ弔辞はどうだったでしょうか。TOPICSで取り上げました。然るべきプロセスと同意を得て執り行われたものと、暴力的なプロセスで同意を得られず執り行われたもの。
全く、比較にならない。同じ土俵に立ってない。
学ぶべきことは、嘘をつかない、言ったことはちゃんとやる。丁寧という意味をちゃんと知る。説明を尽くすとは記者会見だけでではない。全て、めちゃくちゃ当たり前のこと。
そもそも、トップ画像が現首相でないことは、象徴的。