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ゴルバチョフ元ソ連大統領が死去 91歳、東西冷戦終結を主導

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    スポーツ心理学者/博士(システムデザインマネジメント学)/慶應義塾大学特任准教授

    なぜだかとても悲しい。

    88年ソウル五輪前後に、「対話による平和の作り方」を大人が示してくれたと感じていたことが記憶にある。


注目のコメント

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    静岡県立大学国際関係学部 准教授

    ゴルバチョフ氏は、西側諸国から見ればソ連の危険性を除去してくれた人物、ロシアから見れば戦わずして西側に屈した敗戦責任者でした。
     今のプーチン政権からすると、プーチン大統領の評価を高めることは、同時にゴルバチョフ氏がやったことは裏切り行為と断定せざるをえません。

    ゴルバチョフ氏自身は真面目な共産党員で、1980年代の状況下で西ヨーロッパ諸国も現地で見て、むしろこのままではソ連が戦わずして負ける、という危機感から、立て直しのためにペレストロイカを開始しました。アフガニスタン侵攻もやめて撤退しましたが、1989年までかかりました。
     ゴルバチョフ氏は、鄧小平になれなかった改革者でした。天安門事件を鎮圧したような決然とした武力行使はできず、東ヨーロッパ諸国はソ連から離れていき、ソ連の諸民族も独立していきました。
     ゴルバチョフ氏は鄧小平のような、共産党内での圧倒的な権力の集中ができず、ソ連回帰派や、エリツィンのようなソ連解体派の双方に振り回され続けました。
     最後は1991年にソ連回帰派のクー・デタ未遂で軟禁されて何もできず失脚、大衆的な抵抗の先頭に立ったエリツィンが台頭してソ連解体後のロシア大統領となりました。


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    ジャーナリスト

    ゴルバチョフの登場は衝撃的だった。ペレストロイカという言葉でそれまでのロシアの政策を全否定したのである。2001年11月にゴルバチョフとキッシンジャーと中曽康弘氏とのシンポジウムで僕が司会をした。その時に中曽根さんが「日本も憲法改正をしたい」と言った。ゴルバチョフもキッシンジャーも強く反対したのが印象的だった。


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    (株)TOASU特別研究員(経済評論家・コンサルタント)

    「東西融和の立役者として海外で高い評価を受けたが、国内ではソ連最後の指導者として連邦崩壊の責任を問われた。北方領土問題では1991年の訪日で、日本が返還を求める4島が交渉の対象であることを確認した」 
    鉄のカーテンの内に籠って衰退の道を辿ったソ連を立て直すべく進めた言論の自由を認めるグラスノスチと、中央集権的な計画経済を分権的な自由主義経済に近づけるペレストロイカという言葉が日本の新聞に躍った日々を今もはっきり覚えています。日本を「世界でもっとも成功した社会主義国」と称したと伝えられますが、私の記憶が確かなら、これは日本が高度経済成長を終え中成長に入ったころ既に耳にし、語りもしたことがあるような気がします。国有企業や専売制度が多く残って通産省が傾斜生産方式で鉄鋼、造船といった重厚長大産業を育て、終身雇用が守られて企業が従業員のライフサイクルに合せ平等に利益を分配し、政権交代が無く実質的に“一党独裁”の日本が当時の日本国民にもゴルバチョフ氏にもそう見えたものなのか・・・ 
    日経平均株価が史上最高値から大暴落して経済停滞の端緒を開いた1991年に来日して日ソ共同声明に臨んだゴルバチョフ氏には、バブルによる資産格差拡大を批判する声が強まる中で政府と日銀がバブル潰しに動き、官の規制が強まって企業も国民も競争忌避の雰囲気を強める日本に崩壊した社会主義の姿が重なって見えたように感じないでもありません。分配を重視し“新しい資本主義”を唱える政権のもと、日本はゴルバチョフ氏が見た統制経済的な性格をますます強めて行きそうに感じます。
    中国が経済を“資本主義”に導く傍ら言論を厳しく統制する背景には、ソ連崩壊に至ったゴルバチョフ氏の教訓があるかもしれません。人生で最も記憶に残る名前の一つです。冥福を念じます。


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