2022/8/24

ECに勝てる地域のリアル。「ひとつ屋根の下の商店街」はどう生まれたか

フリーライター&稀人ハンター
 全国の各地域には、都市部とは異なる資源を活かすことで、自らの事業のみならず、地域全体のポテンシャルを底上げしている経営者がいる。そんな共存共栄を実現している新しいスタイルの“地方の虎”を、稀人ハンター・川内イオが発掘するシリーズ連載。

  #2では、新潟県・鳥屋野潟で倉庫をDIYリノベーションし、地域の生活に寄り添う地場企業が集う「ひとつ屋根の下の商店街」に変貌させた虎を追う。何もない僻地に年間16万人が来場する商業施設を生み出した挑戦は、どのように行われたのか?
INDEX
  • 湖畔の倉庫に年間16万人来場
  • 家電回収で得た閃き
  • 学生街、地下街を経て表舞台へ
  • ACME Furniture創業者との出会い
  • アクタスへアプローチ
  • 偶然の賜物
  • 望外の成功と限界
  • ひと月の来客数が倍に
  • 大家と店子ではなく「みんなで勝つ」商店街
  • リアル店舗の一番の強みとは
  • 「人に合わせた仕事をくっつける」

湖畔の倉庫に年間16万人来場

 新潟駅から車で南に10分ほど進むと、広大な水辺が現れる。180種にも及ぶ鳥類が生息し、冬には4000羽を超える白鳥が飛来するラグーン、鳥屋野潟(とやのがた)だ。
 カヤックなどで遊べるこのラグーンを囲むように自然科学館、図書館、公園、スタジアムなどがあり、鳥屋野潟は市民の憩いの場になっている。近年は自然豊かな文教地区として、地域の人口も増加しているそうだ。
 そのエリアの一角に、3棟の倉庫をリノベーションした商業施設がある。
 1棟300坪ほどの広さで、ぐるっと歩いて回るだけなら30分もかからないだろう。家具店、アパレル、飲食店、革小物など14店舗が入っているのだが、知名度の高いチェーン店は一軒もなく、すべてのテナントが全国的には無名の地元企業だ。ここに年間16万人が足を運ぶ。
「ネットでなんでも買える今、お客さんには、その場所にわざわざ行く理由、目的があるということがものすごく大事になっていると思います。だったら『ここにしかないもの』を時間をかけてじっくり作ればいい。チェーン店じゃないからいいんです」
 そう語るのは、倉庫を自らリノベーションし、最初に出店した家具・インテリア店「S.H.S(スイート・ホーム・ストア)」を運営する、ツールボックス会長の城丸正だ。同社は3棟の倉庫の借主であるだけでなく、長岡市でもホテルを併設した同ブランドの商業施設を運営している。
 実は、城丸がここに進出した2001年頃、鳥屋野潟周辺は現在のように整備されておらず、住民も少なかった。銀行からも、従業員からも、「あんなところに店を開いても、お客さんが来るわけない」と真っ向から否定された。
 その反対を押し切って鳥屋野潟に進出し、今では年間16万人が集う商業施設になった。無印良品やツタヤを運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブのスタッフが興味を持って訪ねてくることもあるという。
 城丸が考える「人がその場所に行きたくなる理由」とは? 「ネット時代にリアルな店舗が存在する意義」とは? その答えを提示する前に、城丸の人生を振り返ろう。そこに、現在に至るヒントが埋もれている。

家電回収で得た閃き

 明治大学を卒業して社会に出てからしばらくの間、城丸の人生は迷走した。新卒で就職した三菱ふそうは、配属された主計課の上司の姿を見た時、「将来の自分を想像したら、どうしようもなくイヤになって」わずか2カ月で辞めた。
 地元の新潟市に戻って仕事を探すもうまくいかず、ようやく見つけたのは新聞配達だった。
「新潟日報販売っていう朝刊夕刊を配達する会社でね。転勤先が長岡で、その当時、雪が3メートルも積もる地域でした。普段はバイクで配達するんだけど、雪が降ると歩きなんですよ。朝2時ぐらいから初めて、配り終わるのが15時、16時。それから夕刊を配りにいくんです」
長岡は秋から冬にかけて降水量が多く、その大部分が降雪による(写真はイメージ)
 なんとかこのつらい仕事から抜け出すために「資格を取って別の仕事に就こう」と考えた城丸は、新聞配達を続けながら試験勉強に励み、行政書士の資格を取得。新潟市内の司法書士事務所の門を叩くと、「明日から来てください」と言われ、晴れ晴れした気分で朝を迎えた。
 ところが出社すると「ここは出来高払いだから、自分で仕事を取ってください」と言われ、見よう見まねで仕事を始めたものの食っていくほど稼ぐことができず、また新しい仕事を探すはめになった。
 次の職場は、1979年にオープンしたばかりのジャスコ新潟店。コネを持つ知り合いから「電気売り場に入れるよ」と言われて入社を決めたものの、任されたのは商品の配達と使い古した家電の回収だった。この時に、ふと閃いた。
「その頃はもう、挫折感しかなかったんだけどね。配達に行った先で引き取ってきた家電が、使えそうなやつばかりでさ。まだリサイクルなんて言葉もなかった時代だけど、これを直して安く売ったら、新潟大学の学生とか若者が欲しがるんじゃないかと思ったんだ」

学生街、地下街を経て表舞台へ

 働き始めてしばらくすると、家電売り場に配属された。そこで小売り業を学びながら中古家電のリサイクル販売のアイデアを温めていた城丸は、3年間働いた後の1982年、32歳で起業した。
 ここから快進撃が始ま……らない。新潟大学の近くに店を開いたのに、リサイクル家電は学生たちに売れなかった。「面白いですね」と訪ねてくるのは、大人ばかり。なんでだろう? と頭をひねっているうちに、自分の思い違いに気が付いた。
「学生はお金がないから中古っていうのは、違うんじゃないか。リサイクル家電を面白いと思うかどうかはお金がある、ないじゃなくて、感性の問題。感性の問題なら、普通にお金を稼いでいる大人でも興味を持ってくれる人はいるはずだ」
 新潟大学近くの店を1年で閉めた城丸は、古町通りという商店街に移転しようと考えた。ただ、この通りは新潟市内のメインストリートで、家賃も高い。仕方なく、商店街の地下街(現在の新潟地下街西堀ローサ)に「S.H.S」を構えた。
旧店舗の変遷(写真提供:S.H.S)
 そのテナントは家賃5万円で、古町通りと比べると人通りも格段に少なかった。それでも1カ月に100万円ほど売り上げるようになり、「やっぱりリサイクル品は大人に売れる」と手応えを得た。
 開店から間もなくして、古町通りに空き店舗を持つオーナーが訪ねてきた。城丸が最初に「ここで店をやりたいなあ」と思いつつ、家賃が高くて諦めた物件のオーナーだった。その人は、開口一番、「うちのお店を借りませんか? 家賃下げるんで」と提案してきた。
 いきなりの話に戸惑う城丸に、大家は「どれぐらいの家賃だったらやれそう?」と尋ねてくる。もともとの家賃は15万円だったが、「半額なら」と言ったところ、それで貸すということでまとまった。なぜオーナーは家賃を半額にしてまで城丸に貸そうとしたのだろうか?
「なんでだろうね(笑)。きっと、面白そうと思ったんじゃないかな。儲かる、儲からない、成功するしないを考えてっていうよりも、存在として面白いっていうことが大切なんですよ」
 こうして1984年、思いがけず古町通りという「表舞台」に出ることができた。

ACME Furniture創業者との出会い

 この頃、リサイクル家電から中古家具の販売に切り替え始めた。城丸が目を付けたのは、アメリカ軍が放出した家具だった。
 1983年、東京渋谷区にアメリカ軍払い下げ品の家具や古道具を仕入れて販売する「Oh PA!」というショップがオープンし、話題を呼んでいた。当時、新潟県内に同様の商品を扱う店がなかったこともあり、城丸はそこに商機を見いだした。
「恐らく、関東圏の米軍基地、特に福生、横須賀、座間あたりは東京の連中がいるだろう」と考え、青森の三沢基地に向かった。だが、基地に行って「家具を売ってほしい」と言っても、買えるわけではない。基本的には基地周辺のショップや米軍とつながりがあるショップが入札に参加して購入し、そこから買い取るというルートになっている。
在日米軍基地の周辺には、放出品の家具などを販売する店が多くあった(写真はイメージ)
 1986年のある日、三沢基地近くのスクラップ屋に入ると、店主から「あんた、東京の安田って知ってるかい?」と聞かれた。安田氏は「Oh PA!」のオーナーで、後にインテリアショップのパイオニア、ACME Furnitureの創業者となる人物だ。
「知り合いではないけど、名前を聞いたことがある」と答えると、店主は安田氏も三沢基地まで足を延ばしていると話した。
 それを聞いて興味を抱き、アポを取って恵比寿のお店を訪ねると、ふたりはすぐに意気投合する。安田氏が関東圏の米軍基地で仕入れたものを分けてもらうほどの間柄になり、安田氏の紹介で東京での交友関係も一気に広がった。この頃、古町通りの店の雰囲気もガラリと変わった。
旧店舗の変遷(写真提供:S.H.S)
「安田さんを通じて出会った人間は、みんな俺より若いけど、すごく面白くてかっこよかった。着てるもの、会話の内容、乗ってる車、ぜんぶ真似したくなるんですよ。もう、どれだけ影響を受けたかわかんないね。
 そういう憧れの気持ちで、なんとか近づきたいと思って仕事に夢中になる。そういう時期ってすごく大事なんじゃないかな。この時、店は大きい小さいじゃなくて、やってることが面白ければそれなりの人が来るんだなと思ったね」

アクタスへアプローチ

 城丸が米軍払い下げ品の家具や古道具を扱うようになると、県内各地から商品を求める客が訪ねてくるようになった。
 S.H.Sの売り上げは伸びたが、やがて頭打ちになった。東京と違い、米軍払い下げ品の家具や古道具を求める客層は限られていたのだ。それに、家具は一度購入したら頻繁に買い替えるものでもない。
 そこで城丸は輸入家具、オリジナル家具、雑貨などの販売を手掛けるインテリアショップ「ACTUS(アクタス)」にコンタクトを試みた。
 新潟の伊勢丹でたまたまアクタスのスタイルブックを手に取った時、そのなかに一脚1800円程度の折り畳み式ガーデンチェアを花畑に置いて撮影した写真があり、「これは面白い会社だな」と気になっていたのだ。
 アクタス側は当初、乗り気ではなかったそうだが、城丸が1台25万円のソファを売らせてほしいと掛け合い、S.H.Sで1カ月の間に5台売ると、その実績を認められ、1998年、S.H.Sでアクタスの商品の販売がスタートした。

偶然の賜物

 アクタスから「家具だけでは生活提案になりませんよ」とアドバイスを受け、テキスタイルや雑貨なども仕入れて、できる限り、アクタスの世界観を表現するショップに変えた。
 アクタスの商品は米軍の払い下げ品より広い層に支持され、間もなくひと月に約300人が来店するようになった。アクタスの家具は単価が高いので、売り上げも伸びた。
旧店舗の変遷(写真提供:S.H.S)
 そこでまた、限界を感じた。毎月、平均的に300人が訪れるようになったものの、それ以上増えなかったのだ。
 理由はわかっていた。1984年に開業した時と比べて、商店街を歩く人の数が減っていた。それは人口減少だけでなく、一家に1台以上の自家用車を持つ家庭が増えたからでもあった。当時、駐車場がなかったS.H.Sのショップに来る客のほとんどは、どこかに車を停めてきていた。客にとっては駐車場がなく、不便だったのだ。
 どうしたものかと考えていた時、旧知の安田氏から電話がかかってきた。「米軍基地で、10トン車3台分の家具を入札で落とした。東京都内で保管すると高いから、新潟に安い倉庫はないか?」という問い合わせだった。
 探してみると請け負った城丸は、市内から15分ほどのところにちょうどいい倉庫を見つけて連絡した。後日、そこに家具が搬入されるのを見届けた時、周囲を見渡してハッとした。ここ、いいんじゃない!?
 そこが、鳥屋野潟の倉庫だった。
改装前のがらんどうの倉庫の様子。
「倉庫が3棟並ぶこの場所には、広い駐車スペースがあったんです。それに、なんの変哲もない倉庫を改めて見た時に、かっこいいと思ったんだよね。それは、安田さんと一緒に米軍基地のレストランでご飯を食べたりした時に目にしたものとかその場で感じたアメリカの文化が影響しているかもしれない。
しかも、周りには自然があって環境もいい。近くに図書館も科学館も公園も鳥屋野潟もある。うちの店に興味を持ってもらえたら、子ども連れで来た家族が絶対に立ち寄ると思ったんだよ」

望外の成功と限界

 城丸は当初、3棟の倉庫のうち、1棟を店舗にしようと考えた。
 リノベーションの費用などを算出し、銀行に「鳥屋野潟の倉庫に移転したい。これぐらいの費用がかかるから、資金を貸してほしい」と相談すると、前述した通り「あんなところに店を開いても、お客さんが来るわけない」と言われ、借りたい金額の半額しか認められなかった。
 資金繰りが不安になり、アクタスをはじめとした取引先にも事情を説明して、「仕入れを分割させてほしい」と頭を下げた。取引先の担当者たちはその提案を受け入れたものの、「そんなところで売れるんですか?」と疑問でいっぱいの様子だったという。
 挙げ句の果てに、当時10人ほどいた従業員のうち数人からも「こんな場所に店を作ったって、人はこないでしょう」と言われ、まさに四面楚歌。いいアイデアだと言ってくれる理解者はひとりもいなかったが、それでも「やってみなきゃわかんないだろう!」と突っぱね、準備を進めた。
 迎えた2001年、S.H.S鳥屋野店オープン。300坪の倉庫1棟を使い、余裕を持って家具を配置し、それぞれの持つ世界観を丁寧に表現した。すると初月、いきなり3000人が訪れ、売り上げも跳ね上がった。
2001年の移転オープン時の店舗(写真提供:S.H.S)
「立地を変えただけで、車の置き場所があるだけで、人が来やすい店になる」という城丸の予想は、自分でも驚くほどの大当たりだった。
 しかし、その喜びも長くは続かなかった。家具売り場が好きで、何度も通う人は少ない。次第に客数が減っていった。そこで1年後、城丸は空いていたもう1棟を借り、そこも家具売り場にした。スペースが広くなれば、商品のバリエーションも増える。また一時的に大勢の客がやってきたが、カウントしてみると最大3000人程度だった。そうしてまた、みるみると客が少なくなっていった。
 その間に安田氏の家具を収めていた倉庫も空いたため、翌年、もう一棟も借り上げ、3棟をフルに使った巨大な家具売り場にした。物珍しそうに客が押し寄せ、また3000人まで回復したものの、やはり一過性で終わった。丸3年が経ち、城丸はようやく認めた。
「うちの面積を広げても、客数は増えない。うちだけで人を呼び込むのは不可能だ」

ひと月の来客数が倍に

 そこで声をかけたのが、新潟を代表するワイナリー、カーブドッチの落希一郎氏だった。実は、城丸が鳥屋野潟に店を開こうと思った背景には、1995年に新潟市内の巻町角田浜で開いたカーブドッチのレストランがある。
 当時、そのエリアは周囲になにもないような場所だった。城丸は初めて訪問した時、「こんな自然しかないところに人が呼べるの?」と疑問を抱き、「商売は町の中心部でしかできない」という常識を覆されたと振り返る。
 カーブドッチの落氏は古町通りのショップ時代からS.H.Sの顧客で互いに面識があったこともあり、鳥屋野潟にも興味を持つのではないかという一縷の望みを持って「レストランを開きませんか?」とオファーを出した。すると、落氏は城丸が不安になるほど即決で快諾したという。
 そして2005年、『カーブドッチとやの店』がオープンすると、かつてないほどの客の波が押し寄せてきた。
ランチ時は客足が途切れないカーブドッチの店内
 「開店と同時に、ひと月に6000人のお客さんが来るようになりました。開店から半年ほどは、昼間のランチが2時間待ちだったからね。それは、カーブドッチという名前が効いたからで、もし、どこにでもあるようなイタリアンやフレンチだったら、こうはならなかったでしょう。
 カーブドッチのファンはS.H.Sの客層より少し世代が上なので、互いの認知度が上がって、いい相乗効果になったと思います」
 違う業種、異なるファンを持つ店とかけ算することの威力を知った城丸は、3つの倉庫を「ひとつ屋根の下の商店街」にしようと思い立つ。

大家と店子ではなく「みんなで勝つ」商店街

 まずは、テーマを決めた。人間の基本的なニーズは、衣食住。それに加えて、現代は「知、健、美、遊」が求められていると仮定し、この7つの項目を商店街に入る店舗選びの基準にした。
 そのうえで、最初はスペースを貸して家賃を取ろうと考えた。そのためには、家賃を支払う体力がある店がいいと思い、「商売を始めて10年、20年の経験があるところ」を条件に声をかけ始めたのだが、軒並み断られた。実績のある店は慎重で、簡単に新規出店を決めたりしないと実感した。
 それならと、7つの項目を前提に、「面白そうなところ」にアプローチするようにした。そういう店はいくら売れるのか予想がつかないため、毎月定額の家賃を支払うのはハードルが高い。そこで、売り上げの数%を納めてもらう形にした。これが、想定外の効果をもたらした。
「テナントの売り上げが上がれば、うちの収入が増える。だから、全体で売り上げが伸びるような努力をしなければいけない。この形にしたことで、家賃いくらだから入りませんか? という大家と店子の関係ではなくなって、みんなで盛り上げようという雰囲気になったんだよ」
 テナントは、城丸と大学を出て働き始めた息子の学が中心となって気になるショップに声をかけるという地道な方法で増やしていった。現在はアパレルショップ、バッグ店、生花店、ジュエリー工房、靴磨きラウンジ、住宅会社など計14店舗が軒を連ねる。
3つの倉庫のフロア図。S.H.S以外にも多様なショップが出店している(写真提供:S.H.S)
 各店舗はそれぞれ個性豊かだが、決してバラバラな雰囲気ではない。というのも、「ひとつ屋根の下の商店街」は、あるコンセプトのもとで運営されているからだ。
「ここには家具があり、ジュエリーがあり、住まいの相談コーナーがあり、子供服もある。生活のなかの一コマが、ぜんぶ線でつながっているんです。
 大事なのは、若いカップルがここに来た時に、近い将来の自分たちの暮らしをイメージできるか、どうか。店を出た瞬間に、『結婚しようか』って男が彼女に言ってしまうぐらいの雰囲気を作りたいと思っています。
 誰もが人生のなかで特別な瞬間がありますよね。その時に気になる存在、行ってみようかって思われるところになりたいんですよ」
 店内は天井が高く、広々としていて居心地がいい。ショップの内装には木材が多く使われていて、高級感と落ち着きもある。この倉庫内をゆっくりと歩きまわりながら、訪れた客がそれぞれの人生のフェーズで理想の生活に想いを馳せるような統一感のあるデザインになっているのだ。

リアル店舗の一番の強みとは

 倉庫全体だけでなく店舗の内装もS.H.Sの社員の大工が手掛けているのだが、驚くべきポイントがふたつある。
 ひとつは、内装を変える工事を昼間にするということ。当然、大きな音も出るし、ペンキを塗れば匂いがするし、ほこりっぽくなる。だからどこの施設でも一般的には閉店後から深夜、早朝にかけて内装工事をするのが当たり前なのだが、城丸はあえて過程をすべて見せる。
 ふたつ目は、それによって新たな仕事につなげていることだ。
「うちは開業当初からそうしてるから、お客さんは慣れてるんだよね。きっと『またなにかやってる』ぐらいに思われてるし、完成したらどうなるんだろうって楽しみにしてまた来てくれます。エンターテインメントのひとつになってる感じ。
 なかには大工の仕事をじっと見ていて、うちもこういう感じでリフォームできますか? って内装工事の依頼をしてくる人もいますね」
 依頼者が現れた後の対応も、ユニークだ。依頼者の要望を聞くのではなく、「うちに任せてくれるならやりますよ」というスタイル。要望通りに工事をするなら、ほかの業者に依頼すればいい。作り手が気持ちよく仕事ができる環境こそ、能力を発揮できるという考えだ。この発想は、S.H.Sの売り場でも共通している。
「商店街で米軍の放出品を売り始めたら、それが好きだというスタッフが集まるようになりました。その時に、それが好きなスタッフだと売れるもんだなと思ったんですよ。
 ネットがここまで広がってきた時、我々みたいなリアルの店舗がなにを一番強みにしなきゃいけないのかっていうと、『人』です。今は30人ぐらい従業員がいるけど、好きなことを一生懸命やれる環境をどう提供するかを考えてますよ」
 一昨年、社長を継いだ学も言葉を継いだ。
「うちは家具、インテリアの接客販売の経験の有無で採用してないんですよね。いち生活者として、なにをして生きていきたいかっていうことを繋いでいったら、仕事が生まれるなと」

「人に合わせた仕事をくっつける」

 S.H.Sの家具売り場に来て、その場で購入を決める客はほとんどいないという。何度も通い、実物を見ながらスタッフに相談し、ようやく決断する。その過程で、時にはスタッフと客の間に売り手と買い手の間柄を超えた関係が生まれる。子どもが生まれたと言って、スタッフに見せに来る客もいる。
 この「微笑ましいコミュニケーション」こそが、リアル店舗の存在価値になると城丸は語る。その価値は、好きなことをしている人が、気持ちよく働ける環境でしか作り出せない。
「だから仕事に人をくっつけるんじゃなくて、その人に合わせた仕事をくっつけるっていうことも、これから大事なんじゃないかな。その結果、人生の節目に行きたい場所、新潟に来たら必ず寄ってみたい場所のひとつになればいい」
 2001年にS.H.Sのショップができてから鳥屋野潟の住民が増加し、今では周辺の地価が4倍になったそうだ。税金を使わず、派手なイベントもせず、有名店もなく、自力で「ここにしかないもの」を作ったら、町がにぎやかになった。これは、ほかの地域でも応用できることでは? と尋ねると、城丸は大きくうなずいた。
「町おこしとか地域の再生なんて掲げる必要ないでしょ。地方の強みはなにかって、足元を見りゃわかるんじゃない? その強みを活かして、その場所で3時間ぐらい過ごしてみたくなるような環境を作るってことですよ」