2022/7/26

【岐阜】どん底からの起死回生を支えた「利他の精神」

ジャーナリスト/岐阜女子大学非常勤講師
高機能タオル「エアーかおる」シリーズで知られる浅野撚糸がある岐阜県安八町周辺は、輪中集落の本場です。水害と闘ってきた不屈の歴史は、浅野撚糸のDNAにも脈々と受け継がれているようです。
INDEX
  • 繊維産業の栄枯盛衰 時代に翻弄され廃業の危機
  • 経営学では理解できない「廃業しない選択」
  • 「商売は利他」どん底を支えた父の記憶

繊維産業の栄枯盛衰 時代に翻弄され廃業の危機

岐阜県西濃地区から愛知県尾北地区にかけての一帯は、戦前から多くの紡績会社が工場を構えていました。のこぎり屋根の織物工場、機屋(はたや)も集積し、毛織物などの繊維の一大産地を形成してきました。最盛期の繁栄ぶりは「ガチャマン」、機織り機からガチャという音がするたびに1万円儲かると表現されるほどでした。
「浅野撚糸」社長の浅野雅己さん(62)は、こう振り返ります。
浅野撚糸社長・浅野雅己さん(浅野撚糸本社にて)
「最盛期はこの地域の約190軒中、約70軒が機屋でしたが、今は1軒だけ。紡績は撚糸より早くに韓国、台湾、東南アジアに生産が移っていきました。特に(1985年の)プラザ合意から。縫製のみだったのが織機や染色、織布ときて、やがて普通の撚糸も。この地域にあった紡績会社の工場がなくなり、大手商社や化学繊維会社からの残った仕事を取り合いました。
1995年、海外ではできない水準の仕事を受注しようと、混合撚糸の機械を購入し、綿とゴム、紙などを撚り合わせて伸び縮みする高品質のものを生産しました。このストレッチは日本の技術の真骨頂でした。協力工場にも機械を買ってもらい、従来の価格の倍以上の加工費で受注できるようにしました。
しかし、早期退職した日本の技術者を韓国や中国の会社が雇用し、機械も新品を購入して、すぐに私たちを追い抜きました。1998-99年に協力工場に機械が入った矢先、仕事は急速になくなりました。
2001年、2年前に過去最高の7億3000万円だった売り上げが5億7000万円に。2007年には2億3000万円まで下落しました。ただ、2000年までの5年間は好調だったので、約2億円の貯金がありました。機械売却の見積もり額は1億5000万円。他社から工場の施設を丸ごと借り上げたいとの申し出もあり、毎月300万円の賃料収入も見込めました。父と顧問会計士にも廃業を勧められました」
社長室に飾られた創業以来の売上推移表。苦しかった時代の数字も刻まれている
海外との競争激化で、もはや太刀打ちできそうにありませんでした。浅野さんも、経営者として合理的に計算すれば、ここで撤退すべきだと考えました。しかし、そうしなかった、そうできなかった事情がありました。
「大手商社に『これから伸びるビジネスだから』と説明してもらい、協力工場に機械への設備投資を説得して回った経緯がありました。下請けですから、大手商社との間で契約書があるわけでもありません。発注を約束した商社の担当者も交代して、もういません。父は『今さらだけど、言っただろう』と」

経営学では理解できない「廃業しない選択」

浅野さんは少年時代、将来の夢が二つありました。一つは、父・博さんのような社長になること。もう一つは、中学の体育教諭になること。
「父は『撚糸は先行きが厳しいから、継がない方がいい』が口癖でした。それで、体育教諭を育成する課程で知られる福島大学教育学部に進学しました」
大学卒業後、浅野さんは岐阜県に戻って教員の道へ進みます。3年間、小学校の教諭をした後、念願だった中学の体育教諭になりました。しかし、わずか1年間で自ら退職し、浅野撚糸に入社したのです。
「岐阜県西部撚糸工業組合の理事長をしていた父が、協力工場に新しい機械の購入を働きかけた際に『理事長に後継ぎがいなくて機械を買わないのに、協力工場のだれも買わないだろう』と言われたそうです。父は私に相談せずに機械を購入していました。それを聞き、教員の世界の限られた人生に違和感があったこと、母の病気などの家庭の事情もあって、後を継ぐ決心をしました。
そんな経緯もあって、うちだけが逃げ延びるのではいけないと考え直しました。やめていたら、巨額の借金を抱えた協力工場で自殺者も出ていたでしょう」
浅野さんは、難局から逃げない選択をしました。父・博さんも、その決断を最終的には受け入れました。「『家と庭だけは残してほしい。もともとはなかった会社だから、あとは自己破産まで、とことんやればいい』と助言してくれました」
先代である浅野さんの父が「残してほしい」と伝えた庭は、今も健在
独自の特殊撚糸ができた後も、商品化までに紆余曲折がありました。浅野さんは、打開のめどが立たない中でも、協力工場の人々に集まってもらうたび、夢を語らないといけませんでした。「これから受注量は倍増していき、10年後にはフル稼働になる」と。彼らは会合の後、まっすぐ喫茶店に向かい、「うそばっかり言っている」と浅野さんの悪口を言い合っていたといいます。
「ずっと後になって、本人たちから聞きました。『おまえの悪口をみんな言っていたけど、一番言っていたのは、おまえのいとこだったよ』と。3人からは、自殺しようとしたことを打ち明けられました。
ひたすら、車で営業回りを続けました。会社に戻ると、追い詰められた形相の協力工場の仲間が私を探してうろついていました。彼らを避けるため、日中は営業車の中や高速道路のサービスエリアで寝るなどして過ごし、夜になってから会社に戻って製品開発の仕事に取り組むといった日々でした」
後年、大学の経営学の教授や学生たちと、浅野撚糸のケースを巡って議論する機会がありました。その際に浅野さんが質問攻めにされたのが、この廃業しない決断についてでした。
「利他の精神が自分を支えてくれたと思います。父は『大義がないと続かない。情だけでは最後につぶれてしまう』と言ってくれました。外注さんを救えなくても、せめて納得してもらえるまで頑張ろうという思いでした。父母が『仲間を見捨てた』と周囲から責められないように」

「商売は利他」どん底を支えた父の記憶

余力のあるうちに廃業せず、どん底を経験した浅野さん。経営学で解答が用意されていない問題に対する自分なりの答えでした。合理的な選択ではありませんでしたが、長く地域社会に根差して暮らす地方、とりわけ安八町周辺で歴史的に絆が強い地縁血縁を考えれば、見え方は違ってきます。
岐阜県の資料によれば、木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川の流れが安八町周辺で集まってきます。河川の構造上、木曽川のあふれた水は長良川へ、長良川からさらに揖斐川へと流れ込むようになっています。古くから安八町周辺はよく水害に見舞われたため、集落を取り囲むように輪中堤が築かれました。また、集落の間で、時には命がけで水利権を争ったといいます。
1929年、安八郡の住民2000人が地元に水害を招きかねない岐阜県の治水計画に抗議し、警官隊と衝突、陸軍まで派遣される犀川事件が起きました。住民は多数の逮捕者を出しながらも、岐阜県を計画撤回に追い込んだといいます。
浅野さんには、忘れられない父・博さんの姿があります。
「1976年9月の長良川水害で、安八町一帯は浸水し、大きな被害を受けました。ずさんな河川管理による人災として国に賠償を求める訴訟で、父は原告団長として尽力しました。最終的に敗訴し、巨額の裁判経費の支払いが決まったのに、父が原告団会議で謝罪した時、仲間全員から拍手喝采でねぎらわれたんです」
「商売は、やはり売り手良し、買い手良し、世間良し、でなければいけません」。浅野さんは近江商人の経営理念である「三方良し」に言及し、一言付け加えました。
「商売は利他です。かかわってくれているすべての人のために、何としても儲けなければいけません」
浅野撚糸の不屈の挑戦は、古くから集落ごとに水利権を争い、輪中堤を築いて水害と闘ってきた安八町の歴史と重なって見えました。
崖っぷちからはい上がった浅野さん。そのエネルギッシュな経営の原動力は、もう一つの大義と夢を見る力にありました。
Vol.3に続く