【読書】人気作家が考える「少女漫画」から学べること
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「少女マンガとマイノリティ」というのは、非常に重要な切り口です。
少女マンガがマイノリティのためだけのものかというと、それは違うだろうし、「努力・友情・勝利」系の少女マンガもあります。『ちはやふる』とか『青空エール』とか。
少年マンガがマイノリティを無視しているかというとそんなことはないし、マイノリティを描く作品は、増えているのが時代の流れでしょう。
そして、少年ジャンプの読者の4割は女性、という時代ですから、ジェンダーレスになってきているのも時代の流れでしょう。少年マンガ雑誌で描く女性マンガ家も増えました。
そういう意味で、「少女マンガ」が成り立ちにくい時代になってきていて、実際、雑誌の売り上げでいえば衰退しています。
しかし、少女マンガが50年以上前からジェンダーの狭間にいる人々、LGBTというジェンダー、様々なマイノリティーを描いてきたことは、日本のマンガ史上で極めて重要なことです。
1949年生まれの「24年組」にだいたいいえることで、萩尾望都の『トーマの心臓』が1974年、竹宮恵子の『風と木の詩』が1976年に連載開始ですが、それらは1970年からの彼らの共同生活やヨーロッパ旅行からの積み重ねで生まれたものです。
単にジェンダーのことだけではなく、大島弓子作品にも、誰にも見捨てられた人間を描いた作品が多いです。同性愛者の高校生(『つるばらつるばら』)、精神疾患の妻を介護する男性(『ダリアの帯』)、認知症の老人とその介護をする介護者(『金髪の草原』)など、現代でもたくさんいるであろう、普遍性のある話ばかりです。
こういう作品が少女マンガの中から先駆的に現れたのは確かで(手塚治虫にもそういう試みはあり、「24年組」の多くも手塚と接点がありましたが)、これらの作品の大ヒットによって、マイノリティを描く日本のマンガが現在に至るまで非常に多い、といえます。ドラゴンボールも、初期の頃は台詞が多く面白く読んでいましたが、いつしか、戦闘するキャラクターが数ページにわたりにらみ合い、「おりゃー」「とりゃー」程度で終わってしまうようになり、読まなくなってしまいました。
本記事より、この一言。
『「たたかって一番になる」ことができない人、いくら少年マンガを読んでも「頑張ればなんとかなる」と信じられない人が読むのが少女マンガだ。』
これはまるで、マイ名作韓ドラの「マイ・ディア・ミスター」や「私の解放日誌」の世界。どちらも脚本家はパク・ヘヨン。財閥お金持ちオラオラ男子系のドラマはすでに絶滅危惧種になり、市井の人々の日常がかかえる悩み、苦しみ、喜びを繊細に描き出し、共感を得る韓ドラが増えた。
パク・ヘヨンについて
http://kankoku-seoul.jp/netflixmy-liberation-notes-11/
また、日本では評価が分かれているが(その理由はなんとなく分かる気がするので、どこかで論じたい)、ノ・ギヒョン作家による「私たちのブルース」もこれと通底するテーマを持つ。「私たちのブルース」は一つのシリーズドラマでありながら、オムニバス的な手法もとりいれ、主役級の俳優を多く配置し、それぞれのキャラクター1人あたりよくある悩みを一つ体現しており、全体を見ていくと一本の糸につながるような印象を受ける。
また、2016年にアジアから初めてブッカー国際賞を獲得した「菜食主義者」の著者ハン・ガン(韓江)が表現する世界も、これに近いものを感じる。この「菜食主義者」の読後感は、なんとも言えないものがある。一見幸せそうに見える、ありふれた日常を過ごす人々の、心の深み。一歩間違えればオカルト的表現になりかねないものを、抑制的に描いたという下記の評論は確かにと感じる。
「菜食主義者」について
https://k-book.org/publishing/20160209/先月の里中満智子氏の私の履歴書、そしてこれを読んで、まだまだ目を見開かされる世界があるなと感じます。どう考えても「少女」の枠を超えていると思うのですが、もっといい呼び方があればいいですね。