【漫画第8話】憎しみは、どこから生まれるのか
NewsPicks編集部
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注目のコメント
寛容であろうとする時に、他者の不寛容には、どれだけ寛容であるべきか。全ての宗教家が向き合う必要があった問い。日蓮宗は、これだけ迫害されてきたのに、しっかり残ったのがすごいと思う。
本来の目的から乖離し、私利私欲や自己保身にはしる者は、自分を脅かす存在が現れると、憎しみをもって押さえようとするということがよくわかります。
「世のため、人のために」と願う日蓮の真逆の行動です。
いつの時代でも教訓になる光景です。
「変化するものこそ生き残る」と言いますが、私利私欲や自己保身を遠ざけ、常に「世のため、人のために」と願いながら、考え、行動していく者が、生き残るために必要な変化、さらには必然の変化をもたらすことができる、ということを感じさせられました。
まさに現代にも通じることではないかと思います。どうなんでしょう…私はこの事案、皆さんほど賛同できません。
触れてはならない所に触れている、という場合、本来は話し合いによる解決こそが妥当性を持ちますが、主人公の行っていることは実力行使と何が違うのでしょうか。
もっとも、相手方の行う、寄ってたかって囲うなどが決して良いとも思いませんし、そのために鹿を殺して良いはずがありません。
仮にこの方法ではなく、弁護士が現れて「私は弁護士です。この説法については町の条例に違反しているとして会場提供の許可は裁判所より取り消されました。」と説明されたとして、果たして同じ反応になるでしょうか。本来、同じ反応にならないと迫害とは言えないはずですが、おそらく違うと感じる方も少なくないのではないでしょうか。
勧善懲悪として描くには悪が悪でないとなりません。悪にも一理ありの段階で勧善懲悪とはならないのです。