【RS】当事者不在バナー

何のための住民アンケートなのか?

「危機管理意識不足」を絶対に認めない検証委員会

2014/10/21
私たちの生きている社会はいま、圧倒的に弱い立場にある当事者たちの痛みや思いを感じとり、きちんと耳を傾け、丁寧に寄り添えているのだろうか。立場ある者が、目先の営利や名誉、効率性ばかりを優先していないか。これから記そうと思っていることは、長く当事者たちに接してきたジャーナリストとしての自分自身への問いかけでもある。
連載1回目、2回目に引き続き、学校管理下にあった児童74人、教職員10人が東日本大震災の津波で犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校の惨事はなぜ起きてしまったのか? そしてなぜ、その後の検証が適切に行われなかったのかについてリポートしていく。
第1回 日本の政治は、誰のためのものなのか?
第2回 「大川小学校の悲劇」は、こうして葬られる
第3回 「ゼロベース」は不都合な真実を隠すマジックワード
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新北上大橋の向こうに北上地区が広がる(釜谷地区から遺族撮影)

学校管理下にあった児童74人、教職員10人が東日本震災の津波で犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校事故。

「なぜ津波が来るまで50分近くもの時間がありながら、子どもたちを学校から避難させなかったのか?」という真相解明を求めるための検証委員会は、2013年2月に文科省主導で設置されてからというもの、ダッチロールのような迷走を続けていた。

年内までの最終報告をまとめる期限が間近に迫った同年10月20日になっても、石巻市内で開かれた第5回検証委員会では、遺族たちの期待する目新しい事実や情報は何ひとつ出てこなかった。

新たに同会議で報告された「事実情報」のひとつは、大川小学校学区内の新北上川沿いに細長く広がる大川地区と、川をはさんで対岸にある北上地区の集落の住民アンケート調査だ。

しかも調査結果を報告したのは、検証委員や調査委員ではなく、事務局を受託した防災コンサルタント「社会安全研究所」の首藤由紀所長だった。

アンケートは、震災当時、この大川・北上地区に在住していた945世帯に、行政委員が調査票を配布。回収数は187世帯で、回収率はわずか19・8%だった。

対岸の住民にアンケートを取る

報告によると、震災以前に居住地区で「津波災害」が起こることをどの程度心配していたかという結果、「非常に心配していた」「やや心配していた」との回答は、(大川地区にある)「長面・尾崎地区」では約70%に上ったが、「長面・尾崎以外の大川地区」では約20%、(新北上川の対岸にある)「北上地区」では約25%にとどまった。

そして、「あまり心配していなかった」「まったく心配していなかった」の回答が70%以上を占める結果となった。

この結果を受け、この2つの地区(「長面・尾崎以外の大川地区」、「北上地区」)では、「あまり心配していなかった、まったく心配していなかったとの回答が、非常に多い結果が出ております」と首藤所長は説明した。

「長面・尾崎地区」は、大川小学校より沿岸部寄りにある集落で、危機意識が高かったのは当然として、学校のあった釜谷集落から上流の地域を「長面・尾崎以外の大川地区」とざっくりと分けている。

そのため、もし震災当日の行動に影響を及ぼす可能性があったとすれば、学校周辺の釜谷集落の住民意識であるはずなのに、その肝心な釜谷だけのデータはわからない。

そもそも、街が津波にのみ込まれて、全員が他の地域へと転居している釜谷集落の住民に何人聞いているのかさえも、この調査からは不明瞭だった。

わざわざ対岸の北上地区の住民にアンケートをとることにいたっては、「いったい何のために調査しているのか?」と、いぶかしがる遺族たちの怒りが傍聴席で噴出した。

地震発生後、自宅周辺にいた住民に聞いた「防災行政無線の放送」についても、北上地区では「放送を聞いたことをはっきり覚えている」「明確ではないが、放送を聞いたような気がする」との回答が約60%となったが、大川地区では10~20%にとどまったと紹介したうえで、特に、「長面・尾崎以外の大川地区」では、「放送は流れていなかった」との明確な回答が、約45%となったと強調していた。

防災無線放送は流れたのか?

しかし、この「長面・尾崎以外の大川地区」には、震災当日、電池切れのために防災無線が放送されなかった間垣という集落も含まれていた。

だから、「放送は流れていなかった」の回答が多かった可能性もある。学校の立地する釜谷集落の住民だけで分母を取らなければ、この設問自体、意味がない。

同会議終了後、その点を筆者が検証委員会の室崎益輝委員長に確認しに行くと、室崎委員長はその当時、間垣集落で防災無線が流れなかった事実を把握していなかった。

一方で、「長面・尾崎以外の大川地区」の中にも、震災前から「(津波災害が起こることを)非常に心配していた」「やや心配していた」住民も少数ながら存在している。また、「(防災行政無線の)放送を聞いたことをはっきり覚えている」と答えた住民もいる。

もし、第3者の視点で検証するとしても、報告書にある「放送は流れていなかった」との明確な回答が、約45%となったではなく、その他の約55%の中に「放送を聞いたことをはっきり覚えている」と答えている住民が少数ながら存在していたことに着目すべきなのに、そのことへの言及もない。

北上地区では、防災無線の放送を聞いた住民が多かったものの、委員会を聞いていても、そうした対岸の住民調査が、当日の学校管理下での教職員の行動といったいどう関係するのかについての議論はなかった。

「対岸の住民アンケートを行うことになった経緯を教えて頂けますか?」

それから4カ月ほど経った翌年2月23日の最終検証報告の記者会見で、筆者がそう尋ねると、室崎委員長はこう答えた。

「学校と地域の関係はとても大切だと考えています。学校が変われば地域も変わる。地域も変われば学校も変わる。子どもたちの安全を地域と学校が一体となって守る。現にここ(大川小)が津波の避難場所になっている。地域の人たちがどういうふうに津波を考えていたのかという背景を知ることは、大川小の問題を分析する上で欠かせないと判断したからです。だからといって、地域住民が悪いと言うためにやっているわけではないですけど…」

しかし、そういう意味で地域というのなら、学校周辺の釜谷集落のことになる。なぜ、対岸にまで調査の範囲を広げる必要があったのか。

そう筆者が重ねて質問すると、室崎委員長に代わって、事務局の首藤所長がマイクを握った。

「対岸は、旧北上町になります(その後、平成の大合併によって同じ石巻市になった)。旧町の間で住民の意識が違うとすれば、影響を及ぼしたのではないかという話が議論(非公開)に出まして、対岸側も同じように調査しようという形になりました」

室崎委員長と事務局の認識が微妙に食い違っていた。しかも実際、震災のとき、学校長や教職員が先頭に立って裏山などに子どもたちを避難させた学校では、地域の人たちも後に付いてきて一緒に助かっている。問われているのは、子どもたちを預かる学校側の危機管理意識であり、この論理も本質からずれているとしか思えない。

第5回検証委員会の後、遺族の父親の1人は、こうポツリとつぶやいた。

「検証委員会が進むにつれて、どんどん真相の核心から遠ざかっていくような気がする」

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本連載は毎週火曜日に掲載します