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「まあ、人それぞれだから」という優しげな言葉に隠された「厳しい自己責任の論理」

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  • 独身研究家/コラムニスト

    「人それぞれ」が成立するためには、少なくとも個々人の志向や考え方の前提となるファクトを共有しておく必要がある。同じファクトに触れた上で、それをどう思うかは「人それぞれ」で構わない。問題は「みんな一緒」という結果ありきで、そのために提示すべきファクトそのものを捻じ曲げて伝えることだ。戦中の大本営発表などはその最たるものだし、古代から歴史的にどこの国でも見られたこと。「人それぞれ」を認めない社会とは、「みんな一緒」ではない者を異分子扱いし、排除する方向に結び付く。
    社会とは「人それぞれ」である違った考え方を持つ者同士が、違うからという理由で敵視排除しあうものではなく、違うからこそその違いの中に両者共に新たな気づきを得て、それぞれでありながら協力しあう社会ではないだろうか。「人それぞれ」による人との摩擦があるからこそ、傷つくこともあるだろうが、摩擦があるからこそ社会は温かくもなれるのである。


  • 定時制高校 教諭

    人それぞれが、無関心さと尊重を包含していることで生じる解釈の位相のずれ。

    高校生を見て感じるのは、趣味嗜好の異なる他者がいる状態を本当に許容していてすごいなと思う反面、その他者が遅刻常態や欠席続きで成績が危うくなっても、「学校来いよ」とか、「あと何回休むとまずいぞ」みたいな共助システムが働いていない不思議さです。

    決して同じ空間にいる時の関係性が希薄ではなく、むしろ密なくらい活発に関わっているのに、「みんな揃って卒業しよう」まではいかない。

    前者の人それぞれは尊重であり、後者は無関心さなのかと私は解釈しているが、「人それぞれ」が抱える両義性は、振れ幅が大きすぎて逆に使いづらい言葉だと思う。


  • 農業 理学

    「人それぞれ」って結局、流されるままに生きてるだけってことなんだろうと思います。
    あいつのところは西風が吹いてるからあっちに行く、俺のところは南風だから向こうにいく。そんなもんでしょ、って感じ。それで客観視できてるつもり、みたいな。
    でも本当は、それだけじゃ何かダメそう、不安だ、というのは、何となく感じてると思う。


    先日読み終わった佐藤優氏と斎藤環氏の対談本『なぜ人に会うのはつらいのか』にこんなくだりがあった。

    ーーーーーーー
    佐藤 もし暴力が完全になくなってしまうと、世界は際限なくエントロピー(不確定)化して、我々自身も消えてしまう。裏を返せば、拡散を防ぐためには、ちょっと無理して耐エントロピー構造を作っていかねばならず、その機能を果たすのが暴力に他ならない―。そんな理解でよろしいでしょうか。
    斎藤 おっしゃる通り、社会の根源に暴力があると思うのです。…
    ーーーーーーー

    エントロピーという普遍的な概念を使って、暴力の効能・必要性・不可避性が表現されており、とても印象に残りました。
    逆に言えば、エントロピーを低減させることは暴力に比することと言えるだろう。
    例えば、部屋の掃除、整理整頓。身だしなみを整える、久しぶりに顔を合わせた人に挨拶するなど。
    放って置くと乱れてしまったり消えてしまったりするものを維持する時に必要となるのが、一種の「暴力」的なエネルギー。「意志」の力でしょう。たまには風に逆らって歩いてやりたい。

    去ろうとする人を必死に繋ぎ止めようとしたり、折れそうな人を理解できないままガムシャラに励まそうとしたりということは、上記のような考えからは「暴力」にカテゴライズされ得る行為だと思います。
    ただ「なるようになる」だけでは生きてる甲斐を感じきれない。それが人間だろうから。
    時に勇気を出して他人に対して暴力を振るってみる。そういうことは実は大切なことかもしれません。


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