iモードの猛獣使い

チームiモードは、弱小高校野球部?

顧客は技術ではなく、利便性に対価を支払う

2014/10/12

押し寄せる「小姑の嫌み」

携帯電話市場は当時勃興期にあり、売上や仕事量の拡大に合わせて組織も拡大し、本社が入っている虎ノ門のホテルオークラの隣にある新日鉱ビルが手狭になってきました。

そこで、1997年8月、iモード部隊が法人営業部から分かれる際、移転先の神谷町森ビルの4階を曽根さんが探し出してきてくれました。

このビルは虎ノ門の本社と直線で500メートル、歩いて10分の距離にありました。

商品開発には軍資金が必要ですし、設備投資や技術開発も必要です。他組織の力を借りなければならない場面も多々あるので本社の近くにいた方が有利です。

しかし彼らはいろいろとちょっかいをかけて来ます。
「そんな商品本当に売れるのか?」
「そんな技術は世界の孤児にならないのか?」
「金の使い方が派手ではないか?」
などなど、いわば小姑の嫌みです。

その点、神谷町森ビルは小姑から適度な距離を置き、親の支援も望めるという「スープが冷めない」絶妙な距離のビルでした。

私は高校時代演劇部に所属していました。

俳優や演出家になりたくて入部したわけではなく、運動神経がなく体育会系のクラブは無理。かといって音痴なので音楽系もダメ。ということで演劇部に入りました。

当時の我が立川高校には教室棟以外にクラブの部室が入っている別棟があり、そこの部室で一日中グダグダ過ごすのが日課でした。

新しい神谷町のフロアは私にとってこの部室のようなものでした。だれにも邪魔されず自由に活動できる新天地でした。

この別世界は、ドコモの本社が2000年2月、山王パークタワーに移転するまでの2年半続きました。

”夢見る”弱小高校野球部チーム

虎の門のドコモ本社を学校とするならば、神谷町のビルは高校野球の合宿所でした。世間の評判は弱小チームで、同級生も先生も親たちもそう思っていて、我々だけが甲子園で優勝すると信じて練習に励むチームの熱気ムンムンな合宿所の雰囲気でした。

無理もありません、iモードが始まる前の携帯電話の液晶画面は白黒で、時刻、電話番号、電池残量などを表示するため必要な3行しかなく、小さくてコンテンツ表示は極めて貧弱でした。そこで、社内はもちろん、社外の方々もiモードは売れないと思っていたようです。

新商品を創造し、生み出すのには時間がかかります。iモードの場合はちょうど2年かかりました。

商品が売れるまでの間、ビジネスが成功するまでの間、チームメンバーを外界の騒音から守らなければなりません。雑音が聞こえると動揺したり、迷ったりして開発が遅れてしまいます。

この守る機能が、メンター(庇護者)、コクーン(まゆ)、孵卵器などと呼ばれるものであり、ナレッジマネジメントの提唱者である野中郁次郎さんのおっしゃる「場の維持」の機能というやつです。

私の主たる仕事がこの場の維持でした。私の役目であるプロジェクト・マネージャーの主たる仕事でした。

幸い我々はその場を神谷町森ビルという雑音から離れた場所に設けることができましたが、必要なのは地理的な繭や孵卵器ばかりではありません。日々の営みでこの機能が必要です。

そこで、いろいろな形で入ってくるちょっかいにはできるだけ一人称で対応しました。

私のサラリーマン人生で身に付けたテクニックを総動員して、押したり、引いたり、よけたりして繭の内部に響かないようにしました。

例えば商品開発の過程で経営幹部へ進捗を説明する必要がありますが、今まで見たこともない商品ですから、「こんなものが売れるのか」と疑問を呈される時もありました。その時は、こんな言葉で二の句が継げないように軽くかわしたのです。

「皆さんに売る気はありません。みなさんのお子さんやお孫さんがターゲットです」

WAPかHTMLか

当時の携帯電話方式は第二世代と呼ばれるデジタル方式でした。世界的にはGSM方式が主流で、日本のみがPDC方式を採用していました。NTTの研究所が開発したPDC方式は高い能力を持っていましたが、利用が日本国内に限られるということで、孤立化の非難の声を浴びることもありました。

このトラウマがあるため、世界の三大メーカーが推すWAPを採用すべきとの意見がドコモ社内にも当時多くみられ、WAPかインターネット標準方式かの議論が各所で起こりました。

大星社長からiモードの開発を命ぜられた直後、iモード開発の担当者は私一人しかいません。うまく創ればヒットするとは思っていましたが、具体的にどう商品を作るのかは明確ではありませんでした。そこで、まずは社内の有識者をヒアリングしてまわることにしました。

そのひとつが携帯電話機の開発が専門の移動機開発部で、永田清人さんと出会いました。

当時の電話機はハードウェアが中心で、その方面の技術者が多かったのですが、その中でも永田さんは数少ないソフトウェアの分かるエンジニアでした。

彼はすでにWAP方式の提案元であるUP社とも技術的議論を進めており、「UP社の技術はクローズで内容が分からないので採用は難しい」という評価でした。

彼に驚いたのは、WAPかHTMLかの議論の席に参加した時、私の目の前で、上司と喧嘩したことです。HTMLへの思い入れが非常に強かったのだと思います。

その後、iモード向け電話機の開発を担当してくれ、その国際標準化にも尽力してくれましたが、当時ドコモの最大の関心事であった3G、すなわちW-CDMAという新方式の移動機の開発に引っぱられてしまったことは残念でした。当時、私は「逃げるのか」と嫌味を言ったそうですが、もちろん冗談で、感謝の気持ちを込めて言ったのです。

このように、ドコモ社内各所でWAPかHTMLかの議論が沸騰しており、WAPブラウザーを搭載した電話機を実際に作り、合弁会社を立ち上げて新たなビジネスを提供した事業部までありましたが成功しませんでした。

結果的に、多くのコンテンツにアクセスを可能にするインターネット標準方式を採用した我々のiモードが世の中に受け入れられました。

顧客は技術を買うわけではなく、もたらされる利便性に対価を支払うのですから。

UP社の提案を不採用に

このような駆け引きの最中、UP社の社長からサーバーとブラウザーの売り込みがありました。

彼には、のちにドコモが一時期筆頭株主となったAT&Tワイヤレスという米国の携帯電話会社の技術責任者が一緒について来ていました。

AT&TワイヤレスはUP社の技術を使ってポケットネットというiモードと似たようなサービスをすでに提供していました。いろいろ意見交換した中で一番記憶に残っているのは、こんなやりとりです。

「我々はビジネス市場の制覇を目指している」とAT&Tワイヤレスのエンジニア。それに対して私は「いや、この技術が日本を席巻するのはコンシューマ市場だ。近い将来それをiモードで証明するのでその時また会おう」。ずいぶん大きく出たものですが、この確信だけは当初から最後まで変わりませんでした。

UP社の社長は、彼らの技術をそのまま使えば、電話機もサーバーも、すぐにサービスが開始でき、座っているだけでビジネスができると言うのです。

事実、当時の世界の移動通信事業者すなわち携帯電話会社は、資金と電波免許を持っているだけで、ネットワーク設備の構築や保守、電話機の仕様、サービスの企画などはすべて3大メーカー任せでしたから、ドコモも同類と思われていたようです。

WAPブラウザーはコンテンツ優先という我々のビジネスの考え方に合わないので採用する考えはありませんでしたが、不採用としたのにはもうひとつ理由がありました。

サーバーのソフトがブラックボックスだというのです。そこで、川端さんにも意見を聞いてみました。結論はやはり「ノー」でした。

川端さん曰く、「故障が発生したり、新しいサービスを導入したりする際、ソフトを自分でいじれないのではまるで話になりませんよ」。

もちろん、AT&Tワイヤレスが提供しているポケットネットも現地調査しました。

その結果は、予期した通り、インターネット非標準のため見られるコンテンツが少なく、その結果、契約者数も少ないものでした。