ジャーナリズムの未来

ジャーナリスト菅谷明子インタビュー(3)

バズフィードとベゾスが、雰囲気をがらりと変えた

2014/10/8
ネットからスマホへと、激変が続くニュースメディア。その動きの中心であり、世界中のメディアが注視しているのがアメリカだ。アメリカのジャーナリズムについて取材を続ける在米ジャーナリストの菅谷明子さんに、アメリカと日本のジャーナリズム事情について聞いた。以下、読者向けに編集を加えたものを5回に分けてお届けする。
第1回 米国メディア界を変えた「破壊的イノベーション」
第2回 ジャーナリズム:変わるもの、変わらないもの

 [YF]菅谷3

トップジャーナリストほど危機感が少なかった

――ほかの産業は欧米などの最先端の事例を学んできたわけですが、ジャーナリズムでは意外と学んでないわけですね。

日本のジャーナリズムは、マーケットが国内あるいは日本語が読める層だけに限られます。しかも競合の数も少ないですから、例えば世界で戦うトヨタなどとは異なり、日々、切磋琢磨するインセンティブが少ないのです。

日本のように1000万部、700万部といった大発行部数の新聞社を複数持つ国も珍しいですし、紙のビジネスモデルも減少気味ではあるとは言え、宅配制度が行き届いていることもあり、他国に比べると上手く機能している。従って、現状を変えるリスクを取る必要がないということです。しかし、またこれこそが、日本のジャーナリズムの進化を阻んでいるわけです。

アメリカがなぜこんなに必死になっているかというと、まず母体となる発行部数が少なく、経営が大きく揺らいでいるからです。『ニューヨーク・タイムズ』ですら、購読者数はデジタル版を入れても200万に達しません。だから危機感が日本と全く違うんです。

その一方でアメリカでも大手メディアであるほど、そして伝統的なトップジャーナリストでればあるほど危機感が少なく、良いコンテンツを提供していれば読者はついてくると思っている人が多く、メディアの構造変化を理解していないのには驚きました。

私がニーマンフェローになった2011年でさえ、ツイッターをやってるだけで、「アキコはテクノロジーに強いから」なんて言われてました(笑)だから、ネット系の人と伝統的新聞の人がパネルディスカッションなどで大きな声を出し合う、みたいなこともよく目撃しました。

ただ、その雰囲気ががらりと変わる契機となったのは、『バズフィード』が超躍進して利益を上げているという事実と、『The Washington Post』(ワシントン・ポスト) がアマゾンのジェフ・ベゾスに買われたという現実を突きつけられたことです。そこが大きな分岐点に思えました。「ボクたちナメてたけど、やっぱりマジに考えないと…」みたいにお尻に火が点いたんです。そのへんからさすがに私もテクノロジーに強いなんて言われなくなりました(笑)。

アメリカの新聞も、以前はとりあえず昨日やっていることを今日やっていればどうにかなっていたんです。伊藤穰一さん(マサチューセッツ工科大学メディアラボ所長)が以前ニーマン財団に来て、「ビジネスモデルを知ることと、ビジネスに迎合することは全く違うのに、ジャーナリストはビジネスのことを知ろうともしない」とおっしゃいましたが、まさに私も同じことを思っていました。

フェイスブックだけでは、人間として成長しない

――以前の著書『メディア・リテラシー』では、イギリスでは国語の時間にメディア・リテラシーの授業が行われているとありました。日本でメディア・リテラシーを高めるには国語の授業から変える必要があるのでしょうか?

授業でできれば素晴らしいですし、実際、学校で教えている例も出てきていますが、全体に浸透させるのは容易ではないと思いますので、学校外、身近なところでは、家庭などで親がやっていくのも手だと思います。我が家にはアメリカ生まれの娘が2人いるのですが、学校の授業を見ていると、なるほど、メディアリテラシー的な育成がよく出来ているなぁと思うことがあります。

娘たちは2人とも5歳の時に(小学校の1年前から義務教育)、事実と意見の違いを習ってきました。これはニュースを見るのに非常に大事な視点ですが、こうした教育の背景には、「Critical Thinking」といって建設的な批判能力や多角的視点の育成を奨励していることがあります。

本の読み方も考えさせられました。娘が3年生の時に先生との面談で、うちの子の本の読み方を、「自分と共感することに惹き付けて本を読んでいる」と指摘されました。突っ込んで聞いてみると、「本を読むというのは、自分が全く持ったことのない感情や全く陥ったことのない状況、全く行ったことのない国や時代を通して未知のことを学ぶのだから、読む前後で自分に変化がなければいけない」と言うのです。

つまりフェイスブックで共感できることにLikeだけ付けているように、自分の価値観に収まるものに触れて安心しているだけでは、人間として成長しないということです。小学校3年生でそういうふうに教わる。私がこういう教育を受けていれば、人生変わったかもって思っちゃいました(笑)。

作文にしても「Peer Review」、子供同士がグループで批評しあって、最終的にクラスでディスカッションをします。子供が直接先生に作文を渡して見てもらうと、先生一人の評価が絶対的になってしまいますが、友達に読ませたら実はみんな面白いと言うかもしれないし、面白いと思う箇所もそれぞれ違う。これも多角的思考の育成ですよね。

もちろん、アメリカは多様ですから教育も様々ですが、こうした教育のあり方も読者を育てることに繋がると思いますし、実際、読書する層も厚い。こんな学びのスタイルも長期的にみれば、クオリティの高いメディアを支持する基盤作りに貢献しているのではと思います(続きは明日掲載します)。

(写真:大澤誠)