ADandMEDIA_田端信太郎_第2回

アメリカの劣化コピーに乗せられる人たち

バイラルメディアは二重の意味でダサい

2014/9/30
テレビ、雑誌、新聞、ウェブメディアで取り上げられれば、モノが自然と売れる――そんな時代は終わりつつある。では、ソーシャル、モバイルの普及により、マーケティングのあり方はどう変わっていくのか。LINE上級執行役員として、広告営業や法人ビジネス全般を統括する田端信太郎氏に、マーケティングとメディアの未来について聞く(全5回)。
第1回 バズワードで荒れる、日本のマーケティング

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――現在、バズワードの代表格と言えるのが、バイラルメディアですが、田端さんはどう評価していますか。

二重にダサいと思う。まず、ほとんどのバイラルメディアはどこかで見たような記事の劣化コピーである点。もうひとつは、経済合理性がないというか、儲からない点。メディアとしてダサくても儲かるのであればビジネスとしてはまだいいが、純粋に儲かっていない。

だから読者も欺いているし、お金を出させているという意味で出資者や投資家も欺いている。結局、誰が得しているのかわからない。そこに悲しみを感じる。

たとえば、GIGAZINE(ギガジン)には、彼らなりのスピリットを感じるが、その他大勢は、「アメリカではBuzzFeed(バズフィード)が流行っているらしいからやってみよう」というふうに他人の神話に乗っかっている。そこに二重のダサさを感じる。広告主サイドから見ても、今のバイラルメディアには期待できないはず。出口がないチキンレースをやっているというか、チキンレースにすらなっていない。

ネットサーフィンを過去1万時間以上やった

――日本のサービスはアメリカの劣化コピーとなっている例が多いですね。

マーケティングもそう。劣化コピーに乗せられてしまう人がいるから仕方ない部分もある。悪く言うと。5%ぐらいの人たち。

ただし、何が“劣化コピー”で何が“劣化でないコピー”なのかを見分けるのは難しい。見抜くにはそれなりの経験が必要になる。ひとつの分野に通じるには「1万時間が必要」という法則があるが、僕はネットサーフィンを過去1万時間以上している。この20年間で一日当たり3時間とすると、少なく見積もっても2万時間にはなる。

だから、どんなに世の中でもてはやされていようが、セクシーなバズワードにのっかっていようが、不思議と「これはない」という勘が働く。そこには自信がある。その流れで言うと、バイラルメディアは2、3人でやるのであればまだいいが、大企業が出資してやるほどのことではないと思う。

よく「三方(さんぽう)良し」と言うが、バイラルメディアは三方に対してダサい。まず読者に対してダサい。出資者に対しては、どうせ儲からないビジネスプランにお金を出させるという意味でダサい。そして、一番の被害者はバイラルメディアをやっている当人たち。たぶん、得るものはないと思う。

手法として全否定するわけではないが、どこかで見たようなことを今更やることに関して、「何の意味があるのかな」という心の声がしないのか。そもそも気づいてなくてやっているのだとしたら、アンテナが低いし、とりあえずPVが稼げるからやっているのだとしたら、志が低い。僕が思うには、2ちゃんまとめブログのほうがずっとマシです。

バズワードの寿命、哲学・思想の寿命

――では逆に、本当にマーケティングを変えうるような新しい概念はありますか。

やっぱりバズワードになり、安易にラベルが貼られた瞬間に少し違ってくる。ラベルを貼る事自体を否定するわけではないが、所詮はラベルでしかないのだ、という冷静さを常に持つ必要がある。本当に、大事なのは、背景にある思想とかビジョン。バズワードの寿命はせいぜい1〜2年だが、哲学や思想には、30年の賞味期限があるかもしれないと。

例えば、「ブロガー・マーケティング」というとネット広告業界ではもう古くなり手垢が付いた言葉だが、マーケティングのプロセスにどうやって、高感度な生活者を巻き込んでいくか?消費者と生産者の中間に、本来的な意味での編集者・情報仲介者の存在がありえてしかるべきではないのか?というような問題意識なら、あと50年は持つ問題意識だと思う。

さらに具体的に例を挙げると、平べったい言い方もしれないが、「Power to the People」みたいな、ビートルズの時代から歌われている言葉は、もうネットではかなり浸透してきいると思う。それは、別の言い方をすると消費者主権、生活者中心、アマチュア中心、DIY的な主義主張であり、哲学だ。

たとえば、「食べログ」の中に、いんちきなレビューがあると言ったところで、評点が概ね正しいことは絶対的にもう否定できない。これまでの雑誌に載っていたようなレストランレビューや、テレビでタレントが絶賛している店は、そんなにおいしかったのかという話になる。両者を比較すると、そもそも「食べログ」にしか載っていない店もある。

何が言いたいかというと、これまではミシュランの評論家や、一部の雑誌編集者や、グルメ欄の担当編集者や、テレビの情報番組のディレクターがおいしい店を決めていたが、「食べログ」が出てきた結果、消費者側が決めるようになった。編集や編成の主導権が、ユーザーサイドに移ってきている。これこそ「Power to the People」ではないか。

この流れというのは、もう元に戻らないと思う。テレビでどんなに褒められていても、ネットで検索して評価が5段階中の2だったら、「ここはきっとまずい」と思われてしまう。

だから、食べログのサービスの背景には、おそらく食べログなりの思想があるのではないか。どの店がおいしい・まずいというのは、ミシュランの評論家みたいな人だけが決めるものでもない、という思想が。同じことは、たぶんいろんな分野で起きている。車の評論も、昔は徳大寺有恒さんの評論の影響力がすごかったが、今は以前ほどでもない。

結局、今の時代は、何がいいか悪いかを決めるのはマーケターや都心のオフィス街で働くエリートではない。そうしたマーケットの現実や矛盾の中でどうマーケティングするかが問われている(続きは明日掲載します)。

(撮影:風間仁一郎)