iモードの猛獣使い

大星社長の一声で始まったプロジェクト

iモード開発の裏側に、ドコモ豪腕社長アリ!

2014/9/26

1997年1月8日水曜日午後2時、虎ノ門の新日鉱ビル東棟10階にあるNTTドコモの社長室から私にとってのiモード開発は始まりました。iモードのすべてはここから始まったのです。

私は、ドコモの初代社長であり、日本の携帯電話市場の創造者である大星公二さんの前に立っていました。

彼と私の間には一枚の紙が置かれていました。「人事トレーン表」です。

この書類は、人を異動させる計画をたてる時に使うものです。対象となる社員、この場合は私の名前と栃木支店長という現職名が真ん中に書かれ、左に私の異動先である法人営業部長という職名と右に私の後任者名が書かれていました。

この表が経営幹部から新入社員までつながり、あたかも列車編成のように見えるので「トレーン表」と呼ばれていました。

人事担当者にとっては道具であり、私も部下の人事の際には見慣れたものでしたが、動かされる当人に自身の名前の書かれた表を見せることは稀でした。

電電公社出身のサラリーマン社長ですが、中身は型破りでざっくばらんなオーナー気質の社長である大星さんの性格をよく示していると思います。

「榎君、君の次の仕事はこれだ」

直立不動の私に異動先を示しながら大星さんは言いました。

「はい」

「同時にこの新商品の開発もやってくれ」

と言って冊子を渡されました。

「分かりました」

「こちらの仕事には部下がいるのでしょうか?」

「いない」

「社内公募で集めろ」

「社外から採用してもよろしいですか?」

「OK」

この時、私は新たな職務であるiモード、当時は「携帯ゲートウェイ」という仮名であった商品の開発を正式に命ぜられ、快諾しました。

これはいける!が第一印象

社長からの命令ですから、快諾もなにも部下である私は飲み込むだけですが、内心「ラッキー、これはいける!」と思いました。まさに快諾でした。「ラッキー」なんて中年オヤジがなんてカルい、と思われるでしょうか。でも、思わずそう口に出そうになるくらいに、パッと明るい未来が目の前に拡がったのです。

ここで正式に、と言ったのには訳があります。

当時私は宇都宮市で、ドコモの栃木支店長として50名ほどの社員と一緒にポケットベルや携帯電話を販売していました。大星さんに呼び出される二日前の1月6日月曜日午前11時、その小さな店の狭い支店長室のFAXが鳴りだしました。

「マス向けゲートウェイ戦略の実現に向けて」と題する40枚ほどのレポートでした。

送り主は本社にいる会社の先輩です。「まもなく君はこの仕事をすることになるので、資料をよく読んでおくように」と言われました。まさに大星さんに手渡されたのと同じレポートです。

後になって分かるのですが、その40枚ほどのレポートは、前年師走、ドコモのトップ層に大手コンサルタント会社のマッキンゼーから提示された報告書でした。

ドコモの顧客基盤すなわち顧客数の大きさや課金機能を生かし、お客さまとコンテンツの仲立ちをすることにより、情報流通を促進する。そして、トラフィック増および有料情報販売や広告料というトラフィック外収入を得るという内容でした。後にiモードが生みだした成果がすでに書かれていたのです。

「考えつくまでこの部屋を出るな」 ドコモ初代社長の言葉

ドコモの初代社長の大星さんはNTTの常務を務めた方です。

彼にはある危機感がありました。

それは、「マーケットは必ず飽和する」ということです。

1997年当時すでに固定電話の市場は飽和し、収益の伸びは止まっていました。

そこで、NTTは社員を50歳で退職再雇用し、給料を6、7割に下げて60歳まで雇用するという制度を入れたぐらいですから、当時はコストカットの方に目が向いていました。

事業というのは、市場が伸びている頃はイケイケドンドンで楽しいのですが、飽和して価格競争の世界に突入しコストカットが主となると大変です。

特に人件費の削減は大変厳しい事態です。

その厳しさをNTTの経営の中枢で経験していた大星さんは「携帯電話が売れまくってお前たち浮かれているけれど、そのうち飽和し、大変なことになる」と口癖のように言っていました。

彼は、お金を使うことを渋って利益を生み、巨額の配当や税金を納めるよりも、資金に余裕があるうちに将来へ再投資した方が良いとの考えをもっていました。

後に、私が本社に転勤し、iモードの開発を行っていたある日、社長命令を受けてから一ヵ月後の2月頃だったと思いますが、大星さんに呼ばれて社長室に入ると、

「今年は思ったより利益が出そうだ」

「将来のためになる使い道を10億円ほど考えてくれ」

「ただし、減価償却費として後年度負担が残る設備投資は駄目だ」

「考えつくまでこの部屋を出るな」

と言われるくらいその考えは徹底していました。

携帯電話市場が飽和する前に、大星さんは次の商品を生まなければいけないと考え、当時の携帯電話収入のほとんどすべてであった音声収入に加えて、データ通信収入で新たな収益を得ようと考えたのです。

これを大星さんは「ボリュームからバリューへ」と称していました。

そして、具体的に何をしていけばいいかということを、戦略的コンサルタントであるマッキンゼー社にレポートしてもらっていました。

例えば、パソコンにモバイル・データ・カードを差し込み、パソコン通信を仕事場や家庭の外で行うものや、PDA(Personal Digital Assistants)、今で言うスマートフォンですが、パソコンと携帯電話の中間ぐらいの機能を持ったものでデータ通信をするというものです。

移動通信市場の勃興期にいた当時のドコモには勢いがあり、やる気満々で、これら手法すべてに挑戦しようということになりました。

そこでたまたま私に携帯電話単体でのデータ通信、すなわちのちにiモードとなる商品の開発のお鉢が回って来たのです。

マッキンゼー・レポートには目標は書かれていましたが、どのような商品をどう創り、どう売るのか等々の具体的記述はもちろんありませんでした。国内外の固定系インターネットのビジネス例は書かれていましたが、携帯電話事業者としての特徴を生かし、何をすれば売れるのかは書かれていませんでした。そこまでマッキンゼーは考えてくれません。だが、我々もすぐにでも具体策を策定するほど簡単なことでもないのです。

「社内には適当な人材がいないので責任者をヘッドハンティングしたらどうか」という走り書きメモが送られてきた資料には残っていました。

目標や狙いは素晴らしいが、さてどうやって実現するのか、ドコモの幹部が悩んでいる光景が目に浮かんで来ました。