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どこでも栽培可能!?「農業イノベーション」
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イノベーションを産む環境を醸成するために最も重要な条件ですね。多様性の尊重が叫ばれていますが、変化のスピードが遅い日本を出てしまう人がいかに多いか。
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会見もつまんで見ましたが、真鍋さんは日本の良さを尊重した上で、研究者として米国の方が水があったと言っておられるのだと解釈しました。互いの良いところをつまみ食いすると、トレードオフですが「出る杭を打たずに調和を保つ社会」でしょうかね。一方で「頭脳流出」をめぐる論点では、真鍋さんは米国で大きな実績をあげて世界的研究者となった後に日本に一度ポジションを得て、再度米国に戻っています。そこで引き止められなかったマネジメントの問題は非常に根深いと思います。
真鍋先生が米国籍を持っている経緯については、ご本人と話したわけではありませんが、米国での研究環境における事情が大きく、それ以外にはあまり理由はないと考えるのが自然です。日本が嫌で嫌で飛び出したのであれば、たとえば1997年に帰国して地球シミュレーターの構想に携わるはずがありません(ただし地球シミュレーターの利用について、日本の官僚の縦割り主義を目の当たりにして辟易したというようなご発言はあったようです。地球シミュレーターの完成を待たずに再渡米されているのもそのあたりが原因のようです)。

話を米国の研究環境に戻しますと、まずは真鍋先生の研究分野が地球全体の気候という、研究室で実験することができない代物であり、コンピューターでのシミュレーションしかないものであったため、その研究をするには60年以上前の日本ではどうにもならず、アメリカでしかあり得なかった、というのがまず第一の理由です。さらに自由なイメージのある米国といえども、いわゆる外国人が研究費用を潤沢に得たり、研究リソースを十分に与えてもらえたり、研究データに気軽にアクセスできるかというとそうではありません。また、学会においても60年前ですから、東洋人風情が何かやってると舐められてしまうところもありました。そうした理由から、米国籍に切り替えることで、学問のために本気で打ち込むぞという気概を見せて、これまで戦ってこられたものと思います。
たとえば米国の気象分野でミスター・トルネードとしてご活躍され、個人的にはノーベル賞級の研究をされたと思っている藤田哲也博士も、真鍋先生より7年前の1968年には米国籍に切り替えておられます。ミドルネームにTedを入れて、米国人でも呼びやすいようにと気を使うほどでした(ちなみに真鍋先生もスーキーというあだ名をお持ちのようです)。
気象分野に限ってもこうした状況ですから、他の分野の学問、また学者に限らずさまざまな分野において米国を拠点においた上で一人前と認められるには、日本という国を捨てるような覚悟を求められることがあるということは広く知られても良いのではないでしょうか。日本の国籍法が多重国籍を認めないのもそれなりに理由があってのことではありますが、日本をあえて捨てる必要がない人たちにまでそのような選択を強いることがあるというデメリットは改善されて然るべきかと思います。
真鍋さんは、研究内容に関心がなくただ日本凄いと騒ぎたいがためにノーベル賞について語る人達の期待を悉く裏切る発言をしていて痛快。いい加減、科学賞を国の優劣に結びつける低レベルな言説は慎むべき
海外で活躍する日本人が日本を飛び出した理由を問われた際、自虐的に「日本での社会不適合」を理由に挙げるのは常套句です。逆説的ですが、これは調和を重んじて他人の気持ちを傷つけないための非常に「日本的な」回答だと思います。
誤解なきように補足すると、アメリカ人も気を遣う人はものすごく気を遣います、僕の周りはむしろそんな人の方が多いです、アメリカ人は気を遣わないというのは誤ったステレオタイプ。ただ、気配りできなきゃ一人前の社会人じゃない、こういう場面ではこう振る舞わなくては失礼、みたいな面倒くさい同調圧力が少ない(でももちろんゼロではない)ということです。

まあでも、いいんじゃないでしょうか。栃木県に生まれたら一生栃木に住まなきゃいけないなんてこともなく。日本に生まれたって大人になったら自分に一番合う場所に住めば良いだけの話ですね、日本が合っている人もたくさんいるのですから、ノーベル賞一つをもって日本社会を否定することもありません。
米国は移民で成り立っている国なので、そもそも共通の価値観の範囲が狭く、考え方が違うのが当たり前ですね。なので、何も言わなくても理解されることはなく、ルールは明文化されることになります。明文化されてないルールは、守ることも求められません。日本は共通の価値観の範囲が広いので、明文化されてないルールも守ることが求められる。そこら辺が違いでしょうか。
「私はまわりと協調して生きることができない。それが日本に帰りたくない理由の一つです」
なんだかとても寂しい発言ですが、私もフィリピンに住んでいるのでわかります。
私はそんな日本が好きですが、嫌で飛び出て来ている日本人が多くいます。
自分に合った場所で生活をすることにより、良い結果を出している人が沢山いるので、これからは自分の才能を伸ばすために、好きな場所に住む人が増えると思います。
これ逆のこと言う人も見ます。

企業内であれば、アメリカ人こそ、上司or法人と個人の関係がジョブディスクリプション含め明確が故に、その契約関係の前提では上が言ったことには明確に忖度する、とも聞きます。

もちろん契約前には意志をもって契約決めている分、日本とは違うのですが、空気読む文化を憂うだけの論調にはならないことを期待します。
言い方を変えると「周囲と自分が調和しているかどうかを気にしている」、つまり「自分を気にしている」んでしょうね。しかし報道・テレビなどで拝見しましたが、真鍋さんのエネルギーには敬服しますね。年齢じゃないな、と改めて思いました。
最近は大リーグに行く野球選手を裏切者と罵る人はいなくなりました。研究者の世界でも多くの場合、アメリカの大学は「大リーグ」なので、優秀な人はそこに行きたいのは当然で、それに値する人材を日本から送り出すことができるというのは誇りに思ってよいと思います。

調和を重んじる日本が好きな人が日本には多いわけで、それで良いこともあります。ただ、そうじゃない人も排除せず共存できるようになる方が、未来のためにはいいだろなと思っています。