2021/12/7

【量子暗号】2030年、ビジネスはSFを超える未来を描けるか

NewsPicks Brand Design / Senior Editor
 量子コンピュータが実現すると、現在のデータ通信で使われている「暗号」がすべて解かれてしまうかもしれない。その危機に先駆けて、世界各国で次世代セキュリティ技術の開発が進められている。

 スカパーJSATが総務省と取り組む「量子暗号通信網」は、衛星間の光通信や量子力学、素粒子の制御などの先端テクノロジーで構成され、地上や海底に張り巡らされたネットワークを宇宙空間に展開する足がかりになる。

 かつてSFが描いた未来を、ビジネスはどう実現させていくのか。同社宇宙・防衛事業部の田中賢太郎氏とSF翻訳家の大森望氏が、科学と想像力の関係を語り合う。
INDEX
  • SFは、未来を先取りしているか
  • 量子技術はフィクションか、現実か
  • 絶対に破られない暗号鍵のつくり方
  • 量子の粒に乗せて、情報を運ぶ
  • 実業とSFの相互作用がつくる未来

SFは、未来を先取りしているか

── スカパーJSATの社史を読んだら、SF作家のアーサー・C・クラークが出てきました。
田中 彼が1945年に発表した3機の静止軌道衛星による通信ネットワーク構想が、人類の宇宙事業のひな形として紹介されています。その構想は実現し、それどころか今では4000〜5000機もの衛星が地球のまわりを飛び回っています。
大森 クラークは衛星通信をSF小説としてではなく、実現可能なアイデアとして論文に書いたんですよね。僕はスリランカのクラークの自宅を訪ねてインタビューしたことがあるんですが、現地の人と話すと「ああ、クラークって人工衛星を考えた人だよね」と。
 スリランカでは静止軌道衛星のイラストとクラークの写真を使った切手が発行されたくらいで、『2001年宇宙の旅』のSF作家としてよりも、むしろ「衛星通信の考案者」として知られていたようです。
── 衛星通信網のような着想がSF作品になることもあれば、現実のインフラになることもあるんですね。
大森 ええ。クラークがSF作品の形で示した宇宙開発や人類進化のビジョンは、多くの人々を動かして、映画や小説などのフィクションにも、現実にも影響を与えました。
 様々なSF作家が彼の作品に影響を受けただけでなく、そういったSFを読んで科学の道に進んだりNASAに入ったりした人たちもたくさんいます。田中さんは、SFは好きですか?
田中 大好きです。私はもともと宇宙や科学が好きで、大学では物理学を専攻しました。今は衛星を使った宇宙事業に携わっていますが、SFが未来を創作し、現実がそれを追いかけているように感じることがあります。
 それこそ『2001年宇宙の旅』や、ジェイムズ・P・ホーガンの『星を継ぐもの』に夢中になりましたし、最近では大森さんが翻訳された劉慈欣の『三体』シリーズやテッド・チャンの小説も愛読しています。
 読者としては日本語で読めてありがたいですが、あの内容を翻訳されるのは科学論文を訳すより大変ですよね。
大森 訳語が定まっていないと苦労しますね。それこそ、ネット上にある科学論文のPDFを読んで頭をひねったり。どこまでが現実の話なのかを特定しなきゃいけない。
 劉慈欣は壮大なアイデアをストレートに書く人だから比較的わかりやすいけれど、借りものじゃなくて、自分で理論を考えるんですね。最新の宇宙論や量子力学のネタをそのまま使うのではなく、大胆なアレンジを加えて、まさかと思うようなところまで読者を連れていく。
『三体』の世界も、ものすごくリアルな話と、現実の物理学ではありえないような話が平気で混ぜてあるので、読者から「どこまでが本当なんですか?」とよく聞かれます。
『三体』全5巻(劉慈欣・著/早川書房) 2008年に中国で第1部の単行本が発売されて以来、世界で累計2900万部超のベストセラーに。4.3光年離れた三体文明から地球に送られた智子(11次元の陽子を改造した極微コンピュータ)との攻防が、次元を超える壮大なストーリーに発展する。
田中 わかります。私もあの世界に引き込まれて、将来こうなるかもしれないという感覚で読みましたから(笑)。
 ただ、一つひとつの設定を取り出すと、そのうち実現されそうなテクノロジーもありますよね。
 たとえば三体惑星から地球に送られた「智子(ソフォン)」は、量子通信を行っています。私が今取り組んでいる量子鍵配送に通じるところがあって、一層興味深く読みました。
※量子とは、粒子と波の性質を併せ持つ物質やエネルギーの最小単位。このような極小の世界では、ニュートン力学などの物理法則では説明できない不思議な現象が起こる。

量子技術はフィクションか、現実か

大森 今日は田中さんに量子技術の話を聞いてみたかったんです。SFに出てくる量子通信は、量子もつれ効果を使って、どれだけ距離が離れていても瞬時に情報が伝わるという夢のような通信技術である場合が多いんですが、それは現実的ではないんですよね?
田中 これがですね、この数年でちょっと変わってきたんです。
大森 実現しそうなんですか?
田中 日本で私たちが取り組んでいる量子鍵配送は、量子もつれとは別の振るまいを利用した仕組みを使っていますが、中国が2017年に発表した衛星による実証試験は量子もつれ方式を採用したとされていて、「SFなのか本当なのか?」と世界各国の研究者を驚かせました。
2つの量子が相互作用を持ち、距離にかかわらず情報を伝達する。対になる量子を地球と何光年も離れた宇宙の彼方に置くことで「光速を超える情報伝達が可能になる」というのがSFでよく使われる量子通信。
 それもあって2018年から世界各国が量子技術の開発を強化したものの、今日まで日本やアメリカを含め、ほかの国はどこも追随できていません。出された論文のデータもずいぶん検証されましたが、本当に実証したらしいと言われていて、中国だけが突然未来に行った感じがしました。
大森 本当に? 『三体』を読んで「できた!」と言ってるわけではないんですか(笑)。
 量子コンピュータはどうでしょうか。あれも、すでに実現していると言う人もいれば、まだ全然ダメで、もう量子計算に使いみちはないと言う人もいる。いったい、どっちなんだと気になっていて。
田中 そうなりますよね。量子コンピュータもかなり誤解の多い技術ですが、プリミティブなレベルでは、量子技術を使ったコンピュータはできています。ただし、あまりにも性能が低すぎて、実用に足ることは何も演算できないのが今の状況です。
 2019年にGoogleが量子超越(古典コンピュータには実用的な時間で解けない問題を量子デバイスで解くこと)を実現し、最新のスパコンを使っても1万年かかる計算を数百秒で解いたというセンセーショナルな報道がありました。
 でも、それも量子計算のアルゴリズムに特化した問題に対してそういう結果が出たということで、まだ量子コンピュータによる演算が、実用的な問題に対して古典コンピュータより速いかどうかもわからないんです。
 とはいえ、現在使われている古典コンピュータの集積回路は小型化が極限まで進んだ結果、とうとう原子のサイズに近づいて、これ以上小さくすることが難しくなってきています。
 少なくとも量子コンピュータには伸びしろがあるし、実用化できれば消費電力も格段に減らせるので、次のブレイクスルーが起こるなら量子コンピュータだと言われています。
大森 なるほど。フォン・ノイマン型と言われる古典コンピュータは限界に達しつつあるものの、量子コンピュータの可能性は未知数。となると、100年後にタイムトラベルしたとしてもコンピュータは進化しておらず、今と同じような古典コンピュータを使い続けているかもしれないってことですよね。
田中 そうですね。量子コンピュータのアイデア自体は1982年に物理学者のリチャード・ファインマンが提唱して、量子暗号も理論的には1980年代からありました。
 ただ、現実はSFと違って、理論があっても関連する技術や材料が揃わないと実現できませんし、新しい技術を開発して社会実装するには大きな投資が必要です。
 たとえば、1960年代に人類は月に着陸しました。その延長線で考えると、数十年後には誰もが宇宙旅行に行けると思ったでしょう。しかし、その後半世紀の間、有人宇宙開発は失速した。
 もし当時の人が現在に来たら、まだ月面基地もできていないし、火星にも人がいないとがっかりするかもしれません。その代わり、彼らが予想もしなかった形でスマートフォンやインターネットが発展しているわけですが。
大森 そこが現実の難しいところですよね。SFだったら「タイムマシンが発明された」「量子コンピュータができた」と仮定すれば、その先をいくらでも自由に創作できるけれど、現実にはそうはいかない。
 民間でやるとなると、その技術を使っていつまでにどんな成果を出すかを約束しないといけないでしょうし。
田中 量子暗号鍵は量子技術のなかでも比較的シンプルな原理を使うので、ようやく技術や材料が揃って実用化が見えてきました。それと比べると量子コンピュータはまだまだわからないことだらけで、越えないといけないハードルがたくさんありますね。

絶対に破られない暗号鍵のつくり方

大森 田中さんがやっている「量子鍵配送」は、どういう技術なんですか。
田中 簡単に言うと、この先どれだけコンピュータの計算処理力が上がったとしても、絶対に解けない暗号技術です。
 現在インターネット上の電子署名やドメイン認証にはRSA暗号などの公開鍵暗号が使われていますが、仮に一定程度の性能を持った量子コンピュータが実現すれば、それらの暗号は全て解読可能になることがわかっています。
現在の通信では共通鍵暗号方式と公開鍵暗号方式を組み合わせてセキュリティを担保している。だが、仮に高度な量子コンピュータが実現すると、現在使われている暗号は解読可能になる。
 つまり、現在使われているあらゆるパスワードが無効化され、オンラインバンキングやネットショッピングも使えなくなってしまう。安全保障の面でも壊滅的な危機が起こります。
 そうなるとまずいので、先にセキュリティを準備しておこうというのが、各国が量子暗号技術に取り組んでいる理由です。
大森 絶対に解けない鍵なんてどうやってつくるんですか。
田中 3つ段階があって、まず低軌道衛星でどれだけ高度なコンピュータを使っても予測不可能な乱数をつくります。
 現在の暗号では、コンピュータが生成した疑似的な乱数が多く使われています。計算機がつくる乱数では、どれだけ桁が大きくてもパターンや規則性が生じ、解析や予測が可能になる。計算によって鍵が破られてしまうんです。
 それに対して、自然現象は完全にランダムでパターンがありません。量子力学を応用して自然から乱数を取り出すことで、どんなアルゴリズムにも予測不可能な真正乱数を生成できます。
 二つ目が、暗号を送る過程で盗まれないように配送する技術です。生成した真正乱数を、電磁波の最小単位である「フォトン(光子)」に乗せて、1粒ずつ地上に送信します。
 フォトンは量子のひとつで、物理的にそれ以上は分割もコピーもできないため、万が一途中で傍受された場合はその情報が本来の相手に届きません。つまり、第三者がこっそり盗み見ることは不可能です。
今の通信に使われる電波や光、電流には、光子や電子などの素粒子が大量に含まれているため、傍受されたことがわからない。量子鍵配送ではそれ以上分割できない素粒子に情報を乗せるため、物理的に傍受が不可能になる。
 そして最後に、地上で受け取ったフォトンの情報(=真正乱数)を使って暗号鍵を生成します。こうやってつくられた鍵が、パスワードや認証に使われるんです。

量子の粒に乗せて、情報を運ぶ

大森 たった1粒のフォトンに、いったいどうやって情報を乗せるんですか?
田中 情報の乗せ方にはいくつかありますが、たとえばフォトンは揺れる性質を持っていて、この揺れの方向で0か1を表現できます。ただし、どの方向に揺れているかは確認するまで確定しておらず、様々な方向の重ね合わせの状態にあります。これが直感では理解しがたい量子力学の不思議さであり魅力でもあります。
大森 揺れる方向が確定しないのに、情報をやりとりできるんですか?
田中 はい。送信時と受信時に4種類の角度があるスリット(すき間)を通すことで、事後的に判明します。
送信側のスリットを通った時点で量子の方向が確定し、受信側のスリットと合うものだけを選別して暗号鍵の生成に使用する。
 送り手と受け手がフォトンをどの角度のスリットに通したかを知らないと、フォトンが持つ値を知ることはできません。この仕組みによって、傍受者がフォトンを取得して再送信する中間者攻撃も防ぐことができます。
大森 人工衛星と地上でフォトンをやりとりすると考えると、光ファイバーに比べて障害物が多すぎませんか。一粒一粒のフォトンがちゃんと届くのかが気になります。
田中 逆に、光ファイバーにフォトンを通すと、振動や熱で埋もれてしまって数百キロメートルしか飛びません。宇宙空間だと遮るものがないのでむしろ飛ばしやすいんですが、大気圏に入ると障害物が多く、おっしゃるとおり大半のフォトンは失われます。
 それでも1秒間に何億回と発射して、届いたフォトンから暗号を生成できますし、理論的には宇宙から大気圏を通しても数千キロメートルは飛ばせるはずです。それを実証実験で確かめようとしています。
大森 暗号鍵を配送するフォトン以外にも、フォトンはあらゆるところにありますよね。それが送ったものかどうかを、どうやって判別するんですか。
田中 地上で受け取る面はとても小さくて、そこをピンポイントで狙って当てるんです。たとえるなら、東京から富士山頂に置いたサッカーボールにビームを当てるようなイメージです。
大森 なるほど。光子銃みたいなものですね。そんなにものすごい精度で狙えるんだ。
田中 そうです。精度としてはDVDやBlu-rayプレイヤーと同じくらい。あの機械は、振動しながら高速回転する盤面のナノスケールの溝に、レーザー光を当てて信号を読み取っています。
 レーザー光には大量のフォトンが含まれていて、光を弱めるとフォトンの数が減っていく。極限まで弱めるとフォトン1粒になるんです。

実業とSFの相互作用がつくる未来

── SFと現実の区別がつかなくなってきたんですが、こういう先端技術を誰がどうやってビジネスにするんでしょうか。
田中 量子技術の場合は研究者のアイデアが発端ですね。世界各国で基礎研究が行われていて、社会的なニーズもあり、産官学が協力して実装を目指しています。
 大もとには、作家や科学者の空想があり、それをきっかけに研究者が理論を発展させ、そこから実用化やビジネスのアイデアを思いつく人が現れる、といった流れでしょうか。
大森 実社会とSFの距離は、少しずつ近づいているのかもしれませんね。1980~90年代は、両者の接点なんてほとんどありませんでしたが、最近は企業がSF作家に依頼して未来のビジョンを書いてもらう「SFプロトタイピング」のような手法も増えています。
 SF作家たちは、未来を予測するために小説を書くわけではないし、読む人もそのために読むわけではありません。
 ただ、どれだけ壮大で荒唐無稽な発明であっても、文章を書くだけなら、人材や資金を集める必要もなく、自由に創作できます。
 新しい技術やビジネスが発明されたら、社会や人々の生活はどう変わるか。人間はどう受け止め、その技術と付き合っていくのか。
 物語を通して様々な変化を想像し、やがて来る未来に備えられるのはSFのいいところです。
田中 私自身やスカパーJSATの役割は、ある程度技術が成熟したときに、どうビジネスにつなげて社会に実装していくかを考えることだと思っています。
 科学者やエンジニアから見て美しい理論や技術があったとしても、そのままの形では市場にフィットしないことも多い。
 まだ世に出ていない科学技術の潜在顧客やマーケットを探し、マーケティングでユーザーが何を求めているかをすくい上げ、エンジニアリングに反映させる。
 できることを組み合わせて一歩ずつ前進させることで、未来の材料が揃っていくのだと思います。
大森 量子論のような大きな理論体系が出てくると、それが元になっていろんなSFが書かれるし、それが新しい技術として普及すれば、人や社会も変化します。
 その洞察がまた創作のタネになるわけですから、現実とフィクションには相互作用がありそうですね。
── スカパーJSATのビジネスとして、衛星量子鍵配送の先にはどんな展望があるんですか。
田中 私たちが宇宙事業として目指しているのは、衛星光通信による宇宙コンピューティング・ネットワークの構築です。
 量子鍵配送は「光通信」という大きなカテゴリーに含まれ、この光通信は今後さらに重要になります。
 今のワイヤレス通信には電波が使われていますが、情報速度の限界や周波数帯域の枯渇といった課題があります。
 現在、地上と海底に張り巡らされている光ファイバーのネットワークを宇宙空間に持ち上げ、数千機の衛星と地上を光通信でつなぐ。これが、私たちが構想している次世代の通信基盤です。
 このネットワークがやがて月へ、火星へと延伸する頃には、宇宙空間は今よりずっと身近になっているでしょう。