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ユーザが消費者から生産者になるとき持続的なWell-beingが生まれる

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  • バッテリー スペシャリスト

    Well-beingが唯物論的に脳科学に結びついたり、メディテーションのような自らの身体まで自ずからではなく操作しようとしたりと、実は多解釈で近代又は西洋的な方法論的な個人主義を継続しているように映るんですよね。

    科学の還元主義を否定する新実存主義も、こうしたことの反発に見えて、意味の場を設定したところで相関主義を脱し切れないですが、Well-beingと言えば総論賛成してくれるのでそれぞれ頑張ろうといった話に出来ますが、何かしら新しいものが生まれてくるようにはどうしても思えず。

    一方で構造主義的に個人から共同体に視点を振ったWell-beingもコミュニティの再考という形で盛り上がりつつ有ります。

    個人でも集団でも視点はどちらでも良いのですが、人間が意図的に行為をする際に自ずからそうなってしまうような現象こそがWell-beingだというような定義の仕方は無いんですかね。つまり宿命や運命、ひいては必然と偶然の対比として幸せって人生で達成したことではなくて、生ききった動力源のような、ベルクソンならエラン・ヴィタールやギリシャ以来のコナトゥスとでも呼ぶ生命体の性を発揮することがWell-beingなのではないかと思ったりします。

    その際、生の主役としてWell-beingを追及することも大事なのですが、一歩ひいてそうした生命体である集団全体がどうなることが幸せなのかといった、神の視点で自己組織化を研究することはなぜか今は下火になっているようにも思えます。

    自由意思を発揮するなら魂の叫びに従うよりも、なぜ自分はそうした内なる声が湧いて行動してしまうのか、他者もそうなのか、集団になったら1.5人称のような視点で外部から何かしら召喚が贈られたと感じられないのか。

    一歩引きすぎると大衆のアヘンである宗教と呼ばれてしまいますが、Well-beingで些末にやっていることだけ見るとオウムと変わらないとも言え、理論的武装をすると他者まで攻撃することになった歴史は、性として片付けられない運命なのかもしれませんね。

    1つだけ当時よりも望ましい方向性としては、環境を改変せずに人間が目指すべきベクトルを自己決定することに注力していること。それを利用するプラットフォーマーこそが次に倒すべき仮想敵なのか、礼賛すべきグルなのかはWell-beingという曖昧な言葉の解釈にかかると。


  • パナソニック株式会社 室長

    偏愛と余白とウェルビーイングがどのように絡み合っているのか考えてみました。

    プロセスエコノミーやコンテクストデザインなどとの関係性や、コミュニケーションロボットや搬送ロボットの事例も交えながら。

    ユーザが消費者から生産者になるとき持続的なWell-beingが生まれる|安藤 健/ロボット開発者 @takecando #note


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