【深井龍之介×北川拓也】物理学と社会科学の意外な「共通点」
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以前数学者のインタビューでも、一生かけても到達できない最先端理論の先を認識した時神の存在を感じると言うような話を聞きました。
理屈はわからないが、何故かそう言うものだと納得できるものの一部に神という名前をつけている側面があるのかなと思います。世の中のほとんどは詳細な仕組み理屈がわからないまま専門家の言うことを比較しながら納得感を得ているという意味で、専門家は軽度の神的存在とも言えるように思います。
注目のコメント
社会科学を科学にする、というのは、見果てぬ夢ののようなもので、まだ試行錯誤中です。
19世紀にマルクスが「科学的社会主義」を唱え、自分の経済学と歴史学は科学である、と主張しました。自然科学が台頭していく時代に、社会についても科学的に研究できる、という主張でした。マルクスの「社会科学」は膨大な信奉者を得ましたが、20世紀後半になると、それは科学でも何でもなく、科学的な根拠のない疑似宗教のようなものだったことが明らかになりました。誰がやっても同じ結果が出る実験のようなものではなく、人によっては「共感」できる言説を振りまくことしかできていませんでした。
20世紀になると経済学は数量的データを集めて科学的に証明可能な理論を確立しようとしだしました。心理学も実験でデータを集め、人間についての科学を確立しようとしました。社会学や政治学も統計学と結びつきました。しかし、自然科学のような科学には程遠いままでした。
数学を頂点に、物理学も化学も、自然科学は自然を数量化してとらえ、実験を繰り返し再現することで、科学的に証明できる法則を確立してきました。社会科学は、経済にしても政治にしても、実験を繰り返す、というわけにはいきません。もちろん、歴史もそうです。
現在、データ・サイエンスとかビッグ・データとかいわれるもの、あるいはAIで、従来よりもはるかに膨大なデータを社会と人間について集めることができるようになりました。世界中で消費されるファッションの傾向とか、6世紀から20世紀までの日本の短歌の変遷とか、何であれ社会と人間について膨大なデータとその相関関係を計算することで、はるかに精緻な検証が可能になりそうに見えます。
ついに社会科学と人文学が科学になる機会が到来、という期待も一部にありますが、まだ使いこなせてもいないので、実際どこまで可能かは、まだわかりません。リベラルアーツ連載「a scope」。物理学編の後編では、各学問における「理解」の違い、それから今ホットな新領域が語られます。「理解するとは何か」なんて、この対談を聞くまで考えてもみませんでした。そうした点を一つひとつ定義していくことで、日頃見えなかったものが見えてくるようになります。