笑福亭仁鶴さん、骨髄異形成症候群のため84歳で死去 「四角い仁鶴がまあるくおさめまっせ」
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レスペクトしすぎて、お話ししたことはありませんが、京都国際映画祭でお近くに寄せてもらったことは何度かありました。
2018年の開幕セレモニーにご出席いただいたのがラストでした。
74年。中学2年生。学校に仁鶴さんが来た。誰が呼んだんだろう。
黄色いスポーツカーを運転してこられたのを正門で迎えた。ドキドキした。
講堂のステージ、下手から中央に走って出てきて「ちゃんやんまんやんわっ!」
と叫んだ。それだけでドッ!
人気絶頂、スーパースターでした。講話の中味は覚えてません。
平日、6時15分は「仁鶴とあそぼう!」。どんなんかなぁ。
わたしゃビルのおそうじおばちゃん、を歌ってたのは万博の前でした。
ボンカレーのCM、拝一刀が大五郎に「3分間待つのだぞ」と言ったのは、あさま山荘事件で機動隊がカップヌードルを食べた後でした。
72年、岡本公三がテルアビブ空港乱射事件で26人を殺害した後、
ヨーロッパに旅行したとき、本名 岡本の仁鶴さんは、
いろんなとこでテロリスト扱いされて往生したという話をされたことがあります。
日本はまだ野蛮で、爆発的な笑いが欲しかった。
増田晶文著「吉本興業の正体」。
当時の仁鶴さんに関し「あの頃の仁鶴を肌身で知ることができた私は幸せ者だ」
というコメントに同意。
71年なんば花月の調査では、1位仁鶴、2位コメディNo1、3位岡八郎、
4位やすしきよし。このランクが「実感を伴って理解できる」にも同意。
「爆笑」を求めていました。
それからずっと一線を走った笑福亭仁鶴師匠。
吉本の伝説の総帥、林正之助さんは生前、
「仁鶴の面倒は一生吉本で見るようにせい」と言い残したそうです。
吉本黄金時代の礎を築かれたかたです。
吉本の大崎会長が入社したばかりのころ、
仁鶴さんのマネージャーだったそうで。
「あのな、田中角栄と毛沢東が日中国交回復の会談をしたときの話やけど、毛沢東は一国の主席やのに、普通に田中角栄にお茶を淹れたそうや。別に偉いからお茶は淹れないとか、偉くないから淹れるということではないんや」
大崎さんは「なるほどな。いちいち考えずに、自然に『仁鶴さん、お茶どうぞ』と言えばええんや」と思い、その日を境に、タレントや芸人さんたちと、ふつうの人間同士の付き合いができるようになったそうです。
大変お世話になりました。
ご冥福をお祈り申し上げます。大阪で育った身としては、小さな頃から仁鶴師匠はお茶の間のテレビから欠かさず笑いと、品格ある人格で、世の中を笑いにしていた粋な、芸の道に生き、上方落語の名跡の当代でした。
吉本の総帥・林正之助でさえ、仁鶴には頭が上がらなかったというのは、やはりその品格と吉本の礎をつくったとも言われているが故でしょうか。
NHK「バラエティー生活笑百科」、読売テレビの「大阪ほんわかテレビ」、毎週、ちょこんと座っていっときも姿勢を崩すことなく、安定した番組運びは、なかなか後にならう人もいないのかもしれませんね。
コロナ禍ですが、なぜか法善寺横丁にでも行きたなるのは、なにわっこだからでしょうか。落語会においても、仁鶴師匠、月亭可朝師匠も天に召されて、あとは文枝(旧、三枝)師匠だけとなるとさみしいもんがありますね。
週末は仁鶴師匠と、桂米朝師匠の高座でも見ながら、献杯でもしましょかね。ご冥福をお祈りします。仁鶴師匠がお亡くなりになられました。
その一報が、吉本の大﨑会長の電話にもたらされた時に、たまたま僕は隣におりました。
電話が鳴り、「えっ、、、」と尋常ならざるトーンで絶句された会長の声を聞き、これは誰かがお亡くなりになられたに違いないと思いました。
そして、その後の「そうかぁ、、、」と本当に寂しそうに、そして遠くを見つめながら仰る姿に、
もしかしたら、仁鶴師匠かもしれないと思い、杞憂でありますようにと願いました。(お身体の調子が良くないと聞いていたからです)
電話をお切りになられた後、「仁鶴師匠が今朝お亡くなりになられたらしい…」、会長がそう仰った時に、本当にショックでした。
僕自身は面識はないのですが、会長から、初めてマネージャーをさせてもらったのが仁鶴師匠だったという話、そして色んなことを教えていただいた話、笑い話などたくさんのことを聞いていたので、勝手に親近感が湧いていたので、「いつかお会いできたらどんなに素敵なことか」と考えていました。
天才的な芸人さんであり、国民的な人気者であり、愛妻家であった仁鶴師匠。
我々はまた1人愛すべき人を失ってしまいました。
心よりご冥福をお祈りします。