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まさにおっしゃる通りです。経営者にして外交官を務め、博覧強記の読書家である丹羽さんならではのわかりすく、そして深い指摘です。私は、私たち誰もがもっている「小役人根性」が集積した時、国家も社会も道を見失うと思います。自分の出世しか考えない小役人の軍人たちが張り合った結果が、あの戦争だったと思います。陸軍と海軍が張り合い、対米戦争と南方進軍を同時に行うという愚かな二正面作戦を始め、その後も我が身かわいさで戦況を偽造ねつ造して報告し、八方塞がりになると仲間の軍人に手柄を取らせたいと必敗必至の無謀なインパール作戦を強行、多くの兵士を死なせました。リーダーまでが小役人の発想をしたことが、日本の不幸だったと思います。

ノモンハン事件で、日本を撃退したソ連軍団長のジューコフは、スターリンから日本軍の評価をただされて、次のように答えたといいます。
 「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」。半藤一利著「ノモンハンの夏」(文春文庫)より。

コロナ禍の今の日本と重なって見えます。残念ですが。
「いまさらやめられない」との思いで突っ走った指導者、高級将校が350万人の命を道連れにしたとの見立てはわかりやすい説明だし、昭和の戦争の原因と経過と結果を検討したときに出てくる結論のひとつではある。
ところで、今後の問題、心構えの話として、
いま国家間、民族間の対立は1945年当時よりも激しくなっている。隙あらば他国の領土も取ってしまう準備をしている国家がある。最初から戦わないことと決めた国家には「自国の核ミサイルはあなたを狙っている」と説明したら、政治的に屈服するに違いないと思っている国家がいくつかもある。「生きのびるためには戦うことも厭わない」という気迫と法律と装備を持つことで好戦的な相手の理不尽な圧迫と恐怖を緩和できるという発想が「抑止」の発想。これは捨てるわけにはいかない。それが国際社会の現実ではないだろうか?
ギリギリまで戦争を辞められなかったことが日本の悲劇であることは間違いないとして、では「いつ、どうやって、どのような条件で」辞めるべきだったのでしょうか?

私たちは日頃諦めたらそこでゲームセットとか、失敗を恐れず、何度も挑戦して、成功するまで続けることが大事と言います。
個人でさえ諦めることは時に罪であり、大きな挫折であり、一歩間違えれば人生そのものを諦める決断であるのに、国家が戦争の勝利を諦め敗北の酷態を晒すことは、場合によっては国家の衰亡に直結することで、その決断は簡単ではないことは自明のことでしょう。

だからこそ、その難しい決断の是非を考える為には、太平洋戦争はどのように終わらせるべきだったのかを本当は真剣に論じる必要があるのだと思うのです。

ところが「本当はこうやって終戦にすることがベストとは言えないがベターだった」と具体的に論じる意見はほとんどありません。
また戦争に関する話はいつも自分たちの一人語りで、当時の世界情勢や、戦争の相手方だった連合国側の状況は一顧だにされません。
戦争は政治や外交の延長である、というクラウゼヴィッツ以来の近代戦争論の基本はまるで頭になく、なんの政治的、外交的な利害と関係なく、まるで一人で幽霊とでも戦争をやっていたかのようです。

私は本当の失敗の本質はここにあると思っています。
つまり、決断がいつも観念的で、本当に状況を俯瞰した上で、現実的なイグジットを探ることをしない癖が日本人や日本の統治機構にある、ということなのです。
結局前大戦の出口の選択肢が、一億総玉砕か一億総懺悔という、極めて観念的な二者択一しかなかったことが、その証だと言えるかもしれません。

もしかすると、コロナ対策についても似たようなことが言えるかもしれませんが、今日は鎮魂の日ですから、無理に絡めるのは辞めておきましょう。
やめられなかったという話以前にそもそも「なぜ始めてしまったのか」、いや正しく言えば「なぜ、始めざるを得ないような状況に追い込まれたのか」を検証する必要がある。政府や軍人が戦争を始めたわけではない。空気を扇動したのは当時の最大のメディアである新聞。
そしてそれを煽った新聞もまた新聞が作った世論に、自分たち自身もいつしか巻き込まれて行って、そもそも誰がその情報の発信者だったかという意識はどこにもなくなっていきます。国民は「新聞が言ってるんだから」、新聞は「国民がそういう世論なのだから」と、互いに無責任な状態に陥った。
今のコロナ報道とそっくりです。

その件について1年前の夏にそれを考察したのが以下の記事です。
https://comemo.nikkei.com/n/n676b1ef7a163
記事を読んで疑問に思ったこと

「絶対国防圏」という最終防衛ラインを超えられたら負けを認めるという意思決定があったのかな。
どっちかというと「ここを超えられたらヤバイぞ!絶対守るぞー!」→「ヤバイ!まじで超えられたぞ!これは想定外だ!全力でなんとかしろー!」なんじゃないかなと思いました。(不勉強で、記事を読んだだけの感想です)
 
ここを超えられたら〇〇しようという意思決定は、ビジネスの世界では当たり前のように行われる。政府や行政でもやってるのだろうけど、国民には見えてこないなというのが正直なところです。

それは、コロナを見ても明らか。

去年から何回「もう限界。これが最後の戦い」って言われたか分かりません。
そして「このままだと感染は爆発するよ!」って言いながら、ワクチン以外ほとんど何も有効な手段を講じていない今の政府も同じですねと思いました。

失敗学とかって、活かされないのかな。
非常に興味深く拝読しました。終戦の日の今日改めて考えたい内容です。
戦争に参加していた誰もがマリアナ諸島を取られたら終わりと分かっていながら、実際に取られた後も戦争をやめられず結果、その後の東京大空襲、沖縄戦、そして広島、長崎の原爆で多くの命を失ってしまいました。
やめられなかった理由は人間の本性にあると。そして戦争を始めてしまうのも我々に動物の血が流れていることにも起因すると。心したいです。
近年報じられることの多くなった企業の不正についても通じるところがあると感じます。組織のあり方についても考えてみると参考になるように思います。

「手柄は自分のもの、責任は他人のものが人間の本性である。そこで、みんな御身大切で責任を取ろうとせず、問題を先送りにしてしまう。」

「結果がよければ規律違反を犯しても責任を問われない。では、結果がついてこないときはどうするのか。結果が出るまでやめないのである。確たる結果もなく途中でやめれば責任を逃れられない。だから、どれだけ犠牲が出ようと結果が出るまで続けるのだ。」
記事を読んで痛感したのは、日本では誰もが個人責任を負いたくないということです。

強力なリーダーシップを発揮する人物もいなければ、結果責任を背負いこむ人間もいなかった(今もいない?)。

まさに、「みんなで決めた」を建前にするコンセンサス経営のようなものですね。
開戦決定直前の若槻禮次郎と東條英機の会話はこうだったと言います。

若槻「理論より現実に即してやることが必要でないかと思う。力がないのに、あるように錯覚してはならない。したがって日本の面目を損じても妥結せねばならないときには妥結する必要があるのではないか。たとえそれが不面目であっても、ただちに開戦などと無謀な冒険はすべきではない」

東条「理想を追うて現実を離るるようなことはせぬ。しかし、何事も理想をもつことは必要である。そうではないか」

これに若槻は強く反駁していいます――「いや、理想のために国を滅ぼしてはならないのだ」

ビジネスにおいてもズルズルいっちゃうことあるよなと思いながら読んでいましたが、これはその通りだと思います。
この平和な時代がいつまでも続きますように。


以下本文より抜粋
戦争をやめるということは、南方の島々もアジアにおける権益も手放すということだ。それは赤字決算の比ではない。誰も進んで責任を負おうとは考えなかったはずだ。いや、そもそもはじめから責任を負って戦争に臨んでいたのかも不明である。
始まるまでは批判的だけど、一度始まると熱狂するオリンピック報道のような志向性が、大本営発表の本質だと思うけど。

正そうとして批判するより、そういう国民性だと理解して行動したほうが、建設的かもね。
止める意志決定ができるのが真のリーダーだと思う。

海軍兵棋演習ではシナリオプランニングができていたということ。それなのに止められない事実。同様のことが企業の中でもたくさん起きてませんか?