長崎 田上市長 “条約への署名・批准と「被爆体験者」救済を”
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神奈川の高校に通ってましたが、修学旅行先は九州(長崎含む)でした。
平和記念増は想像以上に大きく、当時聞いた語り部さんの話は10年以上経った今でも覚えています。
昨晩閉幕したオリンピックも、「平和の祭典」として謳われていますね。
日本は世界で唯一の被爆国として、改めて世界に向けて発信することがあると思います。
戦争、核兵器が無くなる世界がやってくることを切に願っています。
注目のコメント
平和祈念式典に参列してきました。
今年は長崎市長の平和宣言起草委員として推敲のプロセスを見てきたのですが、最初から最後まで一言一言が魂の込められた言葉となりました。わかっている文章なのに、聞きながら涙が出ました。
そして被爆者代表の岡信子さんのお話も心に刺さるものでした。看護学校生として、自らも被爆し、家族の無事を案じながら救護する様は、まさに医療従事者の個人の姿と現場の惨状を物語っており、新型コロナウイルスと戦う皆さんと重ねずにはいられませんでした。
自分達ではコントロールできないウイルスとの戦いに疲れている今こそ、人間が引き起こしている戦争の愚かさについて考えるべきではないかと思います。
簡単ではないけど、ただ大切な人の命を守りたいという思いと、同じ世界を生きる人間同士の対話から、信頼の連鎖は生み出せるはずだと思っています。記憶を伝える活動が難しくなる状況では、これからを生きる世代が積極的に記憶を受け継ぎにいく姿勢が求められます。オリパラの熱狂や新型コロナへの不安もありますが、この時期だけでも、映像、対話、書籍等どんな形でもいいので、人間が起こした惨禍の記憶を受け継ぐことに時間を使いたいです。
広島原爆がウランの(世界に対する)破壊力を示したと言うのなら、長崎原爆はプルトニウムの(世界に対する)破壊力を示したものでした。そしてそれは、爆心地から比較的近い所に広島では原爆ドームがある程度の形を残せた反面、長崎ではそうした破壊の爪痕を示すような跡地さえ象徴的なものが残らない位の破壊力であった、それだけの凄惨なものでありました。だからこそ後から建てたモニュメントに祈りを捧げる形になる訳です。
よく原爆があったから戦争が終わった、という論調が出ます(私はこの論調、あまり好きではありませんが)。しかし、破壊力を示すだけなら2発目は要りません。
更に言えばこの頃に調停の頼みの綱だったソ連の参戦が重なります。この2発目は文字通り実験のためだったと言わざるを得ません。戦争を終わらせるだけならこの2発目は要らなく、ウランとは違うプルトニウムの実験のためにある種無駄に犠牲になった方々と言われても仕方ない訳です。
(本来なら1発目が無くてもソ連の無茶な参戦だけでも充分降伏を判断する材料にはなったとは思いますが。)
人類はその能力に見合わないものを手にしてしまった、というなら、この核兵器は筆頭格に当たります。
だからこそ、世界的には決して説得力を持つ主軸とはならなくても日本では訴える必要がある、「長崎を最後に」という言葉に繋がります。
核兵器の廃絶が無理なことくらい直ぐに考えれば分かる話ですが、それでも廃絶を唱える必要があるのも、持っていればそのうち使いたくなるからということに他なりません。
実際には違いますが仮に条約に都市単位で参加できる場合、核兵器禁止条約には広島と共に長崎も加わるでしょう。幾ら政府が圧力をかけても広島市議会も長崎市議会も批准位はする筈です。
長崎原爆から既に70年以上経ちますが、これだけの破壊力がありながら長崎のあと、脅しには数多く使われても、スイッチを押す直前までは行っても、実験は行い被害が出ても、実際にスイッチを押した事例はありません。これだけ独裁国家等もテロリストもいて、世界各国に戦争を仕掛ける国がいるにも関わらず、です。
核兵器は人類に見合わないもの、ということは多くの人が(口では否定していても)直感で実は感じているから押せていないのではないかと思えてなりません。