「なりたい自分」の諦め方 きちんと絶望するから希望が生まれる
コメント
選択しているユーザー
注目のコメント
絶望したことがある経験者が書いてみます。
「きちんと絶望する」という表現に違和感を感じました。絶望をコントロールできているかのよう。。。
絶望はもう自分ではどうしようもなくて、でもなんとかしなければならなくて、でも頼る人もいなくて、でもどうにかしなければならなくて、と悪循環になり、精神がやられます。
「よし、明日は会社も休みだから、お風呂に入る前にきちんと絶望しよう」というような感覚は絶望ではないような感じがしました。
タイトルは絶望ではなく、気持ちの整理だと違和感ありません。「昔の人は偉いです。「喪に服す」とは合理的な行為で、自分の大切な存在がいなくなってしまったことに対して、きちんと自分を整理することで、前に向かって歩き出す希望を得ることができるわけです。」
「自らの死を受容するプロセスと、なりたかったものになることを諦めることは、同じとは言いませんが、極めて共通する要素が多いのではないかと私は思います。」
記事を読んで昔漫画家や英文学の研究者になりたいと考えてた自分を思い出した。どっちも自分より遥かにレベルの高い人が身近にいたことで、「無理や…」と諦めがついたけど。
そう考えると自分としては「なりたいものの霊」を無事に供養できた方だろうか。
「頑張れば何にでもなれる」とも言うけど、個人的には徹底的に考えて、捨てるべきものを捨てた先にあるのかなと思う。
今も漠然とやりたいことがいろいろあるけど、まずは出来ることから突き詰めるしかない。諦めるというより、漠然とした憧れが、憧れでしかなかったことに気がつく、ということなのかも
私も法律に憧れて弁理士資格の勉強をし、事務所で明細書をかくところまでいって「法律に携わりたいわけではなく、小難しいことを真剣に議論する大人たちになりたかっただけ」と気がつきました
やってみることで気がつけることもあるので、まずはその世界に関わるところからでもいいかもしれません。本を読んだりセミナーをみたり、応援するNPOやクラファンに参加したり
40で不惑というのも、ひとつの仕事に専念するという捉え方ではなく、迷わずやってみる、という姿勢でもいいのかもしれません