2021/8/2

【文田健一郎】「マットまで一歩、一歩」ゆっくり歩く理由

先月のアジア選手権で優勝し、男子グレコローマン60キロ級で東京五輪の「第1シード」を確実にした文田健一郎。前回のリオ五輪で出場は叶わなかったが、リオ銀メダリストの太田忍(ALSOK)らがいるなか選考レースを勝ち進み、東京五輪では「金」と意気込む。率直な胸の内を伺った。
文田健一郎(ふみた・けんいちろう) 1995年、山梨県生まれ。ミキハウス所属。中学1年時に本格的にレスリングを始め、韮崎工高を経て日体大へ。大学4年時の2017年には世界選手権で優勝し、2019年の同大会でも優勝を成し遂げた。背骨が柔らかく反り投げを得意にしていることから、「猫レスラー」等の異名を持つ。

五輪は決定でも理想にはまだ遠い

──先日、インド・ニューデリーで開催されたアジア選手権で優勝を遂げ、東京五輪の「第1シード」を確実にしました。2回戦から出場してすべて無失点という強い勝ちっぷりでした。
文田健一郎(以下、文田) 投げを出せないという課題は残りましたし、自分が理想とするレスリングにはまだ遠いなって思いました。
その一方で、1回も相手にポイントを与えることなく優勝できたというのは良かった。試合をコントロールして勝つことは今回、目標にしてきたことでもあったので。
レスリング自体はうまくなっているなと感じることはできました。
──文田選手と言えば、豪快な「そり投げ」です。しかし東京五輪出場の内定を決めた昨年9月の世界選手権ではどの相手にも投げを警戒されて、一度しか繰り出せなかった。それでも寝技でポイントを稼いで優勝を遂げています。
文田 寝技を含めて試合をコントロールするというところではアジア選手権を戦ってみて、より洗練されてきたなというか、しっかり身に付いてきたなとは思います。
相手も「文田とやるときはとりあえず組むな」「投げだけには気をつけろ」と言われているみたいで、すごく警戒されています。
でも逆に寝技が面白いように掛かっているので戦いのバリエーションを増やしていけば、自ずと投げに対する警戒度が下がってくると思うんです。
──普通、自分の得意技が掛からないとなるとストレスを感じたり、焦りを覚えたり、などあると思うのですが、文田選手からはあまり感じませんね。
文田 そういうのはないですね。
もちろん投げて勝つのが理想だし、こだわりも持っています。たとえ今は難しくても「投げるためのほかの技」なので、つながっていくんじゃないかと捉えています。
──体も柔らかいですが、考え方も柔らかい(笑)。
文田 こだわりがあるところ以外は、うまくいかなかったら変えていけばいいというのは父の教えでもあって。
──父。敏郎さんは韮崎工(高校)レスリング部監督で、指導を受けてきた師でもありますよね。
文田 その父から『何か一つにこだわれ。そのために何をすればいいかを付随して考えていけ』と言われたことがあって。それが結構、大切な言葉として心のなかに残っています。
──なぜそこまで投げにこだわっているのでしょうか?
文田 自分の柔軟性は強み、特長。勝つための手段として反り投げをやってきて、それを身につけてきましたから。
別にレスリングに体の柔らかさが絶対に必要かと言われたらそうじゃない。体が少し硬いほうが、押す力や前に出ていく力があるとは思うので。
僕は自分の身体的な特長を活かすレスリングをずっと追求してきていたし、その意味でも投げを切り離すことはできません。自分のレスリングを信じてやってきたから、今につながっているという思いもあります。
──猫のような柔軟性と無類の猫好きというキャラクターも重なって、文田さんのそり投げは「ニャンコ投げ」とも言われています。
文田 キャッチーなフレーズでみんなに覚えてもらえるなら、それでいいです(笑)。注目されるのは良いこと。
──それと投げ技にこだわるのは、子供たちにレスリングへの興味を持ってほしいという思いがあるとも聞きました。
文田 僕も小さいころに五輪の名場面集みたいなものを見て、グレコローマンは投げが多くて面白かったんです。ロシアの(アレクサンドル・)カレリンとか見て、派手な技に憧れました。
だから今度は投げて注目される側に回りたいっていう思いが強いです。少しでもレスリングに、グレコローマンに興味を持ってもらえたら嬉しいですね。

先輩が常に前にいてくれたから

──昨年は日体大の先輩であり、リオ五輪銀メダリストである太田忍選手とのライバル関係が大きな注目を集めました。五輪の出場枠は一つしかない。結局、全日本選抜選手権決勝で太田選手に勝って世界選手権出場権を決めたわけですが、強いライバルがいたことで成長につながったという思いはありますか?
文田 それは凄く感じたところです。忍先輩がリオで銀メダルを獲ったときに、この人に勝てば世界で2番目になれると思いました。
練習でも一緒だったので、普段から忍先輩がこれだけ練習をやるなら僕はもう少し多めにやろうとか、かなり意識した。僕の性格上、一人で闇雲に練習するよりも、目の前に目標がいたほうがやりやすい。
忍先輩が常に前にいてくれたから、追い込みやすかったと言えます。
──注目度が上がるほど、重圧ものし掛かってくるとは思うのですが。
文田 忍先輩とずっと争ってきたところはありましたし、女子に比べて男子は注目度低いので、わかりやすくライバル関係としてメディアに取り上げたもらったことは良かったと思います。それと自分はあんまりプレッシャーを感じるタイプではないので。
──緊張もあまりしないとか。
文田 試合前とかは普通に周りとしゃべったりして、リラックスすることを意識しています。逆に集中しすぎてしまうところがあるんで、そっちのほうが自分には合っています。
入場のときって海外の選手はパーッと走ってマットの近くまで行く人が多いんですけど、僕は一歩一歩、踏みしめてこの瞬間を味いたいって思います。大舞台で勝つためにたくさん練習をやってきて、今があるんだ、と。
びびって力を出せなかったらもったいない。僕は一歩ずつ踏みしめて、この瞬間を楽しもうって思いながらマットに向かっていく感じです。試合になれば勝手に集中できますから。
──非常に気持ちの切り替えがうまいという印象を受けます。オフの日はどのように過ごすのですか。
文田 レスリングを始めたころから一緒なんですけど、オフの日は一切、レスリングのことは考えない。
好きなだけ寝る日とか好きな猫カフェに行く日とか、完全オフになります。今も週1は、そういう日になりますね。

オンとオフを作れるたった一つの理由

──猫カフェは今も大好きなんですね。
文田 やっぱりいいですね。猫の気ままな感じがかわいくて、リラックスできます。本を読んで、お茶を飲んで、猫を見てっていう感じです。
──読書はどんな本を?
文田 小学生のころから星新一さんの小説を読むのが好きで。今も読んでいます。
──猫がじゃれ合っているのを見ると、ふとレスリングを思い出すとか(笑)
文田 ないです、ないです(笑)。かわいいなって思うだけなんで。
──なぜそんなにスパッと気持ちを切り替えられるのか。自分ではどう分析されていますか?
文田 性格的なものもあるとは思いますけど、日々の練習も余力を残して終わるんじゃなく、すべて出し切れているからかな、と。
「満足できた!」と思えるからパンとオフにできて、オフ明けの練習からまた全力でやれます。
──とはいえ練習で課題が残ることもあるとは思いますが。
文田 僕は割り切るようにしています。たとえば納得する投げができなかったとしても「あそこはできたからいいか」と思えるタイプ。
「きょうはここまでできたらか、明日はやれる」と納得します。無理にとかじゃなく、自然にそういう考え方になっています。
──文田選手はある番組のなかで「自分の投げは完成しない」と語っています。高い理想ゆえの言葉だと感じますが、一方で柔軟性のある考え方だからだと思うと見え方も少し違ってきます。
文田 練習の打ち込みのそり投げに関しては、きれいに飛ばせますよっていう形があるんです。でも試合ではない。
体のどこの状態がいいとか、どこの筋肉がついているとか時期によっても変わってくるし、クラッチの形だってずっと変化している。足のポジションやタイミングもそう。たまに前に戻ったり、そこからまた変化したりもします。
永遠に完成しないとは思います。でも追求していくその感じが好きなんです(笑)。
──東京五輪まで半年を切りました。どのように仕上げていこうと考えていますか?
文田 投げにこだわって、追求していきたいですね。
そして東京五輪では出ることが目標じゃなく、金メダル獲得が目標。
泣いても笑ってもあと5カ月しかない。悔いなく、やらなきゃいけないと思っていることをすべてやって5カ月後を迎えられたら、自ずと結果はついてくるかなと考えています。