東京赤羽の小さなお店が、コロナ禍で「無料弁当」を配り続ける理由
コメント
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本当に考えさせられてしまう。
なぜ資金や力や余裕をもつ立場にある人間ではなく、
こうして自分たちの「必要なもの」の中から、
社会的に弱い立場の他者へ譲り続けることを選択する方達が責任を負わなければいけないのか。
やり場のない腹立たしさが湧き上がる。
僕(ら)がなるべくならばそちら側にたちたいと考えているのは、この「怒り」が原動力になっている。
金持ちが、金儲けが、資本家がかっこいいわけじゃない。
手元にあるものをどうやって多くの人たちと共有できるのか?
それを続けている方達がかっこいいんだ。
このご家族にはどうか無理なく続けて欲しいと願うばかりだ。
注目のコメント
不覚にも泣きながら読んでしまいました。
個人的見解では、無料提供ではなく匿名でも良いので誰かが買ってプレゼントする(経済は止めない)仕組みが出来ればよいなぁといつも考えます。
実際のところは自店に精一杯で何も出来ていないわけですが。
文化的な生活を送ることは基本的人権として明記されています。屋根の下で眠り温かい食事を取ることは、文化的以前の問題だと思います。
誰だって好きで困窮したわけではないのです。ほんの数ミリ歯車が傾いてしまっただけ。それを個人の責任として見て見ぬふりをする程貧しい国に日本はなってしまったのでしょうか。
お金を稼げないことは自己責任として切り捨てられて良いことなのかなぁ。
お金を稼げることがそんなに偉いのかなぁ。
と日々問うています。
凍えて、飢えて死ぬ方がいる限り、日本は貧しい国なのだと思います。心の貧しさがなくなり、困っている人に手を差し伸べる人の国になれば、いまや後進国となったこの国が、別次元の未来を世界に指し示すことが出来るのかなぁと…。妄想ですかね。ご自身のお店も赤字続きのなか、こういった取り組みはなかなか続けられるものではありません。漫画家の清野とおるさんを生み育んだ赤羽という土地柄もあるのでしょうか?笑
こういった取り組みは行政が率先して…という気持ちになりがちですが、もちろん行政は行政でやるべきことを考えて実行してほしいですが、行政任せにせずに一人ひとりが自分のできることをやる、というマインドの醸成が大事なことなんだと思います。私もコロナ禍で困窮している一人親家庭を支援しているNGOへの寄付を続けています。こういった共助のマインドが広がって欲しいと思いますし、広がっている実感があります。私は隣町の十条に住んでいますが、ホームレスのお年寄りに買い物客がお弁当を買って渡してあげている姿を何度か目にしました。1人で遊んでいる子供に、通りすがりの女性が「ぼく?お母さんはどうしたの?」と一生懸命話しかけている姿も見かけたことがあります。この地域にこういう精神が染み付いているのかもしれません。