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ヤマザキマリさんのイタリア人夫(さん)の「日本は挑発的でなくほっとできる」という気持ち、すごくわかります。しかし、日本人である私も、コロナにかかって自殺した方がいた、というのは衝撃でした(私の実家近くでもそういうケースがあったと母が申しておりました)。世間の目は、気にしすぎても、気にしなさすぎてもだめで、そういう意識が適量あるといいと思いますが、その加減が難しいですよね。
人間関係が固定化している綴じたコミュニティでは、相手を裏切っても付き合いを続けて行かざるを得ないので、そのままでは裏切りが最適な生き方になる。従って、そのコミュニティで秩序を保つには、裏切りを許さないルールが必要になり、その典型が村八分になる。

逆に、開いたコミュニティでは人間関係が流動的なので、流動的であるがゆえに裏切り行為が発覚すると評判が広まって誰も相手をしてくれなくなるので、最低限のお行儀の良さが最適解になる。都会の方が見かけ上の行儀が良いのはそのためだ。

ただし、普段は信頼されるように振る舞っておいて、いざという時に裏切り、そして別のコミュニティに移転するという流浪の詐欺師のような生き方を防ぐことはできない。

この様に、「世間の目」というコミュニティの自浄作用ツールは、人間関係の流動性やコミュニティの開放性と関係があって、一概にいうことはできない。

カルチャーは歴史的に構築されるが、地理も影響する。

日本は近代までの世界文明の中で、唯一馬車の文化が存在しなかった文明。従って、長距離のまとまった量の人と物の移動に制約があった。

馬車がなかった理由には諸説あるが、山と川が多いこと、川にかける橋が木造だったことで、馬車の往来に橋が耐えきれなかったためだったという説が私には最もしっくり来ている。

その様に、ある程度人と物の動きが寸断されていると、より世間体を重視するカルチャーが育ちやすい。しかし、現代ではかなり人の移動・移住も増えてきたし、東京に住んでいればそんな感覚はなくなって来るので、違和感を感じるということは、むしろ自然な感覚といえるだろう。
「日本におけるこうした“世間体”の厳しさこそが、他国と比べてコロナの蔓延をいくらか抑制する理由になっている部分も少なからずあるのではないかと、私は見ています。」
特に地方ではその傾向が強いと思います。コロナが始まった初期の頃は感染者が出れば噂でその人が特定され、誹謗中傷で引っ越しを余儀無くされることも。とても悲しいことですが、そうならないために気をつけるというケースもあると思います。
世間の目で良い方向に圧があるのは良いのですが、コロナ騒動のように悪い圧力は溜まらないですけど。外出、マスクなどの自粛圧は非科学的過ぎて意味が分からない。世間体はもはや過去の遺物とした方が良いし、若い世代はそれがよくわかっている気もします。
宗教との対比はかなり的を得ていると思います。日本人が…というよりも、基本的に人間は誰かや何かに依存したいのではないでしょうか。
西洋人はキリスト教圏やイスラム教圏(一神教圏)のため、自分の行いや考えの正しさを他者である神に委ねていますし、ニーチェがそれを批判して超人という概念を提唱した通り、精神的に完全に自立した人間なんて人種問わず稀なのだと思います。
日本では昔から小さな集落がそこに生きる人の社会でした。よって、みんなが同じように生きていくことこそが正義という文化。グローバル化した現代においても、それはまだまだ根深いものなのか、、
自分なりに思うこと。

・まず、幼少から、ほぼ同じような集団教育を受け、同じように振る舞うように何年も強いられてくれば、無意識に、周囲と同じであろうとする、ように行動していると思います。

・その影響を強く受けた人は、集団と違うことをしている人を見つけると嫌悪感をあらわにし、理由もなく、同じように振る舞うように強要する…そんなことも起こっているように思います。

・でも、もともと、個人差があるんだから、同じであろうとすることに一定のストレスも生まれていて、それを発散させようと、また自分と違う人にやつあたりしているように思います。

・そこに、羨望やら嫉妬やら自己顕示欲やら劣等感やら個人の感情までのっかって、SNSがエスカレートしていく。でも、それも、自分含め、多くの人の感情が処理されていく、極めて人間らしい営みのように思えてくる今日この頃です。