日本人は「世間の目」を、なぜこんな強烈に怖がるのか?
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ヤマザキマリさんのイタリア人夫(さん)の「日本は挑発的でなくほっとできる」という気持ち、すごくわかります。しかし、日本人である私も、コロナにかかって自殺した方がいた、というのは衝撃でした(私の実家近くでもそういうケースがあったと母が申しておりました)。世間の目は、気にしすぎても、気にしなさすぎてもだめで、そういう意識が適量あるといいと思いますが、その加減が難しいですよね。
そもそも、『世間の目(世間体)』って怖いモノなのかなぁ。
同調圧力というものもよく理解できない私が、空気が読めないだけなのかしら???
どちらかと言うと、世間の目や同調圧力ウンヌンが悩ましいというより、こういう『日本人の体質批判』を憂いた方が良い気がしました。
シンプルに、目的に対して最善(自分にできること)は何かを考え行動することと、自身の意見や思想と同じくらい他者の意見や思想も大切にすれば良く、自身が間違えていたら『ごめんなさい』が言えれば良いのではないかしら。
何が言いたいかというと、私は世間というフワッとしたもので『同調圧力だとか世間の目を気にする日本』というレッテルを貼り、読み手を自己否定に導くような記事は美しくないなぁと感じただけです。
そうではなく、リアルの世間を観て、そこに捻れがあれば対話しながらほぐしていけば良いだけではないでしょうか。
別に尖る必要もないし自分を殺す必要もなくて、シンプルに話を交わしながらお互いの差異を理解し合い擦り合わせれば良いというか。
普遍的な道徳や規範というものは存在するだろうけど、それらをごちゃ混ぜにして『世間の目』とか『同調圧力』とまとめてしまうのは、なんか違うと感じました。人間関係が固定化している綴じたコミュニティでは、相手を裏切っても付き合いを続けて行かざるを得ないので、そのままでは裏切りが最適な生き方になる。従って、そのコミュニティで秩序を保つには、裏切りを許さないルールが必要になり、その典型が村八分になる。
逆に、開いたコミュニティでは人間関係が流動的なので、流動的であるがゆえに裏切り行為が発覚すると評判が広まって誰も相手をしてくれなくなるので、最低限のお行儀の良さが最適解になる。都会の方が見かけ上の行儀が良いのはそのためだ。
ただし、普段は信頼されるように振る舞っておいて、いざという時に裏切り、そして別のコミュニティに移転するという流浪の詐欺師のような生き方を防ぐことはできない。
この様に、「世間の目」というコミュニティの自浄作用ツールは、人間関係の流動性やコミュニティの開放性と関係があって、一概にいうことはできない。
カルチャーは歴史的に構築されるが、地理も影響する。
日本は近代までの世界文明の中で、唯一馬車の文化が存在しなかった文明。従って、長距離のまとまった量の人と物の移動に制約があった。
馬車がなかった理由には諸説あるが、山と川が多いこと、川にかける橋が木造だったことで、馬車の往来に橋が耐えきれなかったためだったという説が私には最もしっくり来ている。
その様に、ある程度人と物の動きが寸断されていると、より世間体を重視するカルチャーが育ちやすい。しかし、現代ではかなり人の移動・移住も増えてきたし、東京に住んでいればそんな感覚はなくなって来るので、違和感を感じるということは、むしろ自然な感覚といえるだろう。