「日米交流の懸け橋に」 陸前高田を愛したモンティ先生がまいた「種」 
「日米交流の懸け橋に」 陸前高田を愛したモンティ先生がまいた「種」 
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 関連死を含め2万人を超える死者・行方不明者を出した東日本大震災では、日本在住の外国人も津波の犠牲になった。岩手県陸前高田市で英語を教えていた米アラスカ州出身のモンゴメリー・ディクソンさん=当時(26)=もその一人。日米の懸け橋になるという夢を抱き来日したその遺志を継ごうと、日米の交流事業が続けられ、教えを受けた男性は震災の体験記を英語で出版した。あの日から10年。地元住民から親しまれた「モンティ先生」のまいた種は育ち、大輪の花を咲かせている。(植木裕香子)

『武士道』に触発

 家族らによると、モンゴメリーさんは幼いころ、ゲームや漫画などを通じて日本に興味を抱き始めた。自宅で日本関連の書籍を読んだり、漢字の練習をしていたといい、大学では日本語や日本文化を学んだ。新渡戸稲造が英語で著した『武士道』についても熱心に研究。「太平洋の架け橋とならん」という新渡戸の言葉に触発され、大学卒業後の平成21年、外国青年招致事業(JETプログラム)の一環で来日した。

 外国語指導助手(ALT)として陸前高田市の小中学校で勤務。学校での英語指導の傍ら、ボランティアで英語教室も開いた。市民マラソンに参加したり、懇親会で漫才や演歌を披露したりするなど、地域住民との交流も深めた。ALTとして来日から2年が過ぎ、当時交際していた日本人女性との将来についても考え始めていた。

 「今が人生の中で一番幸せです」。母校の米アラスカ大アンカレジ校で指導教官だった原田宏子教授宛てに、日本暮らしの近況をメールで伝えた。その直後の平成23年3月11日。激しい揺れの後、巨大な津波が東北の太平洋沿岸を襲った。

 「無限に広がる未来に大きな希望を持っていた。寒くて怖い思いをしながら死んだであろう弟を救えず、本当に悔やんだ」。姉のシェリー・フレドリクソンさんは振り返る。遺体が確認されたのは、震災の発生から約3週間後。交際中の日本人女性からの一報で知ったシェリーさんは「モンティが望んでいるような気がした」と、日本式の葬儀を都内で執り行った。

 悲劇の直前まで充実した毎日を送っていたはずの弟の様子を少しでも知りたい-。震災の翌月、シェリーさんは家族と一緒に訪日した。「大勢の観客を前に漫才ができるか不安がっている人に、モンティ先生は『大丈夫、絶対できるから』と勇気づけてくれた」。住民からこんな話を聞いた。周囲になじみ、愛されていた様子が伝わってきた。

芽吹いた交流

 若くして異国の地で生涯を閉じたモンゴメリーさん。ただ、その遺志は確かに受け継がれている。

 モンゴメリーさんから英語を教わった同市の佐藤貞一さん(66)は24年、震災体験の手記を英語で仕上げ、自費出版した。タイトルは「The Seed of Hope in the Heart(心に希望の種を)」。営んでいた種苗店が津波で流され、友人や親族を失ったことを、克明につづっている。

 「悲惨な震災体験を日本語で書くと、思い出して余計につらくなる。でも、英語で書くと、自分が抱え込んだ悲しみや苦しみを何の感情もなく発散できるような気がした」。佐藤さんはこう話し、続けた。「ほぼ無縁だった英語を教えてくれたモンティ先生は、私の心に『英語』という種をまいてくれた」

 シェリーさんらがモンゴメリーさんの死亡通知書を受け取る際、担当の市職員は大粒の涙を流していた。「弟は陸前高田の人たちを愛しただけじゃなく、家族の一員のように愛されていた」(シェリーさん)

 モンゴメリーさんがまいた「種」は、日米の交流という形でも芽吹いた。震災翌年の24年、原田教授らの尽力でアラスカの母校に「日本言語文化センター」が設立された。今年3月には、モンゴメリーさんを追悼する式典がオンラインで行われ、日米から約90人が参加したという。

 陸前高田市でも29年、市の協力で地元の岩手大と立教大(東京)が開設した交流活動拠点「陸前高田グローバルキャンパス」の中に、「モンティ・ホール」と名付けられた部屋が開設された。地元の中学生の英語学習に活用されるなど、日米交流の中心的役割を担っている。

 モンティ先生は今も、陸前高田の人々の心に生き続けている。

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