堀江貴文著『非常識に生きる』より

家も車も買いまくってたけど…ライブドア事件ですべてを失った堀江貴文が語る「所有欲の正体」

仕事
非常識は、誇りある称号だ

実業家・堀江貴文さんの主張です。

ロケットの打ち上げや和牛ビジネスの海外展開など、やりたいと思ったことを次々と実行できているのは、「素人ができるわけない」「やめた方がいい」という言葉に一切耳を貸さなかったからなんだとか。

周囲の意見に屈することなく生きるにはどうすればいいのか?

堀江さんの著書『非常識に生きる』から、他人に縛られずに自分の人生を歩むための「非常識な生き方」について一部抜粋。

「子供のまま生きること」「所有欲の正体」「人間関係のコツ」について3記事でご紹介します。

所有欲は、人を幸せにしない。

若い頃から、僕にはほとんど所有欲がない

車に家、高級スーツに時計、貴金属、有名なアート、トロフィーワイフ...

多くのいわゆる金持ちが求めている、「自分の成功を象徴する」ような実体物を、ひとつも持ちたくない。

唯一と言える所有欲は、スマホぐらいだ。

仕事や遊びに、いまのところ最も役立つからだ。

けれど、もしスマホ以上に、僕のいまの暮らしを最適化させてくれるツールが出現したら、スマホも秒で捨ててしまうだろう

かつて持っていたもので割と大きなスケールだったのは、プライベートジェットだろう。

資産家の自慢として買ったのではなく、シンプルに海外移動が便利だったからだ。

いまはホンダジェットを、知り合いとシェアして使っている。

シェアで用が足りるなら、自分で買って持とうとは絶対に思わない。

そもそも、スペースを取られるものを、なぜみんな欲しがるのだろう。

持つことによる喜びや安心は、果たして本物なのか

持っているものが、いつまでもそこにある保証は、誰がしてくれるのか?

所有するという欲望の根本的な理由は、何なのか?

まるで、哲学問答だ。

所有欲は、状況によっては行動のモチベーションにもなるだろう。

でも所有欲が、人を幸せにすることはない

あるとしても一瞬だ。

僕もかつて、所有欲にとらわれていた時代を過ごした。

家も車も、ブランド品もワインも腕時計も、買いまくった。

でも、その欲はすぐに満たされた。

所有しなくても自分を豊かにしてくれるいろんなものを見つけて、いまはもっと楽しく暮らしている。

いままで持っていなかったものを努力して持てたとき、その瞬間は満たされる。

しかし、勘違いしてはいけない。

それは「獲得」の喜びであって、「所有」とは違うものだ

この2つは似て非なるもの。

混同してはいけない。

獲得は、考え方によっては報酬となる。

ノルマ達成や借金返済、投資回収などビジネスにおいての積み上げは、大事な獲得の作業と言えるだろう。

しかし所有は、報酬ではない。

所有はリスクとなる

喪失の不安、管理の手間、執着心と、ネガティブな感情を抱えることになる。

本棚に飾っておいたり、クローゼットにしまっておける程度の大きさのものならいいけれど、持ち運びに難儀したり、持っているだけで出費を強要されたり、何らかの制限が付随してくるようなものは、存在自体がリスクでしかない。

いったん所有欲に縛られると、「あれが欲しい」「これも手に入れたい」と所有物のために働くようになり、自分のやりたいことに集中できなくなる

所有物が価値を判断する基準となるので、自分が持っていないものを持つ人をねたんだり、ものを失うことを恐れたりと、心は休まらなくなる。

いま大事にしているもので、少しでも重さが気になれば、思いきって捨てよう

そうすれば、新たな行動の意欲を得られるはずだ。

本当に欲しいモノがはっきりすれば、捨てられる。

モノにこだわったり、捨てられないのは、欲しいモノが明確ではないからだ。

大して欲しくもないモノに囲まれていることで、欲しいモノをわかっていない自分の不充足感から、逃げている。

モノをたくさん持ち、偽物の安心を得ていると言える。

僕は昔、創業した会社の名前を捨て、ライブドアに社名変更した。

当時はライブドアの方が、ブランド価値が高かったからだ

創業社名に愛着はないんですか?

と言われたが、逆に不思議だった。

本当にやりたいことを進めていくのに、ライブドアの方が断然、都合がよかった。

古い社名への愛着とか、どうでもいいんじゃないか?

欲しいモノがはっきりしていれば、何だって捨てられる

チャック・パラニュークの小説『ファイト・クラブ』の一節に、こう書いてある。
「欲しいものがわからないと、本当には欲しくないものに包囲されて暮らすことになる」

「すべてを失ったとき初めて、自由が手に入る」

出典 『非常識に生きる』より

文字どおり、僕はかつて、ライブドア事件ですべてを失った。

だからこの一節の真実味が、痛いほどわかる。

すべてを失った瞬間は辛い。

しかし、モノでは満たせなかった自由を、力いっぱい抱き締めることができた

それは真実だ。

僕は、モノの呪縛を解いて、動き続ける。

安定じゃなく、刺激あふれる世界にいたいからだ。

古い常識に、とらわれたくない。

立ち止まりたくないのだ

東大に受かった18歳のときから変わらない生き方だ。

あなたにだって、できる。

迷わず「捨てる」生き方は、決して難しくない。

何が欲しいのか

明確にできれば、自分という概念を、どこまでも遠くへ飛ばせるのだ。

モノ自体に、目的はない。肝心なのはモノが運んでくる“体験”。

所有することの目的とは、モノを持ち、モノの用途を使うことで得られる利便性娯楽性だ。

美術品や装飾品のように、持つこと自体に目的があるモノもあるが、それも誰かに見せて自慢したいとか、コレクター心が満たされるとか、所有する行為の先の反応に、的が置かれていると思う。

少し考えただけで、わかるはずだ。

モノ自体に、目的はまったく付随しない

例えばCDは、iTunesの登場で短期間に駆逐された。

欲しいのは盤面ではなく音楽だ」という本質的な目的に、みんなが気づいたからだ。

CDそのものには、何の価値もない。

ただの記録媒体だ。

音楽が記録されていなければ、円盤のゴミだ。

長い間、僕たちは、モノが運んでくる体験に、お金を払ってきた

けれどスマホが普及したことで、体験はモノを介さずとも、楽しめるようになった

モノに縛られていた体験は、テクノロジーの進化によって、自由になったのだ。

僕たちは、その体験を分け合える。

体験は、独り占めするものではない

シェアした方が、出会いや信用評価が掛け合わさり、楽しみのバリエーションは増える。

体験の楽しみを最大化していくためには、昔はある程度のお金が必要だった。

モノを買い、所有する必要があった。

けれど出費と置き場所を誰かと分担し合えば、同じぐらいの楽しみを安価で、手軽に得られる時代になってきた。

お金は、それほどいらない。

大事なのは、体験を取りにいく情報力だ。

モノを大事にすることは悪くはないが、モノにとらわれては無意味だ。

肝心なのは、モノが運んでくる体験だ。

欲しいモノは即買いで、楽しんだ後は軽やかに手放し、価値観のアップグレードをしていこう。

非常識を貫いたほうが、速く成長できる

非常識に生きる

非常識に生きる

自由に生きている人に対して「もっと常識をわきまえなさい」と、人は言う。

しかし、その常識を守っていればいいことがあるのか?

守らず“非常識”に振舞うことは間違っているのか?

答えはどちらも「ノー」であり、自分のやりたいことを見つけ出し、大きなチャンスをつかむには、知識とか人脈とか運ではなく、非常識への踏み出しが大事である

出典 『非常識に生きる』

“常識に囚われない生き方”について書いた堀江さんの著書『非常識に生きる』。

一歩踏み出す勇気がほしい」というビジネスパーソンの背中を押してくれるはずです。