ヴァレンティノ、批判殺到の広告を謝罪・釈明 着物の帯でなく「帯を思わせる布」「日本文化を冒涜する意図ない」
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大学の頃に西陣とまでは行かないのですがそう遠くないあたりに下宿してました。部屋は割安だったのですがベランダの向かいには着物関係の工場があって朝から晩までボイラーから水蒸気が出ておりただでさえ暑い京都の夏が大変でした笑
他にもたくさんの工場があって高度な技能を持つ職場、職人の分業により世界的にも評価の高いさまざまな織物が作られていることを実感できる場所でした。
そうしたところで働く職人さんが手軽に食事を取れるということで日本の中でもっともパン屋さんの密度が高いのが京都市内と言われます。
単に腹が立つと共にある意味ではそのあたりの想像力の無さというか図太さがないとグローバル化した世の中を生きていけないのかなとか思いました。
注目のコメント
2015年、つまりインスタが大流行した頃から激しくなってきたcultural appropriation (文化の盗用というか私物化)問題の延長にあるトラブルとも見えます。ただ「違う文脈で着る」のであればまだ寛容でいられたかもしれないですが、「土足で踏む」という行為に侮辱感をかきたてられた日本人が多かった。しかも「海外ブランドに雇われた若い日本人」が指示されるままにそれをやってしまったことでいっそう屈辱感が増しますね。
文化の盗用問題で炎上を繰り返したプラダが専門のスタッフを雇いましたが、やはり各文化圏の繊細な機微まで理解できるスタッフの目を通すことが現代では必須と思われます。
19世紀、武家の小袖は西洋にわたり、コルセットなしで羽織っても美しいkimono=ルームウェアとして西洋に定着しました。現在でも英語の辞書をひくと、kimono=dressing gown, roomwearという定義が出てきます。それがやがて20世紀初頭のコルセットなしドレスのインスピレーションになっていくのですから、ある程度の「違うコンテクストでの着用」は創造性の源として受け止めたいものだと思っています。ただ、今回の「土足で踏む」はその範疇を超えていた印象です。十年以上も前の話ですが、当時勤めていた会社の海外のオフィスが、エキセントリックなメイクをした舞妓さんや、異様に膨らんだ肉襦袢を着た白人の関取を使った広告を展開しようとしているのを知って、違和感を率直に伝えたことがあります。そうしたところ、「日本人を不快にさせていたとは気づかなかった」との返事がありました。良かれと思って作った広告が、意図せず誰かを不快にさせることはよくあります。それを未然に防ぐためにも、制作チームにDiversityが必要で、多様な視点からチェックすることが大切です。
「人の振り見て我が振り直せ」と改めて自戒したいと思います。昔から、素敵だけれども笑っちゃうようなジャポニスム(西洋社会に落胆したパリの芸術家達が、どこにも存在しない「東洋の理想像」を想像力豊かに作り上げたもの)をはじめとして、勝手な思い込みで突き進んでしまう傾向はあったわけですが。
ハイブランドの劣化なんだろうなあ、と思います。
日本人に限らず誰しも、最も粋に感じられるものは、細部まで文化に精通した上で、ほとんど気づかない程度に何気なくその文化の粋を取り入れることだと思います。
精通するまで学ぶという過程を怠けて、無知なままオリエンタリズムに浸るのは、ハイブランドなら、恥ずかしくて本来とても出来ないことなのではないかと思いますが…。