2021/3/29

【東京2020】パラリンピックと「81%問題」

スポーツライター
新型コロナウイルスの感染拡大が収束に見通せない状況で、果たして東京オリンピック・パラリンピック(以下東京2020大会)を開催するべきか。7月23日のオリンピック開幕が約4カ月後に迫るなか、各所で議論されている。
NewsPicksでは先月、「東京2020のリアル」と題し、「医療」「お金」「アスリート・ファースト」という視点から、開催の可能性や意義を再考する特集を掲載した。
東京2020大会を予定どおりに開催するべきかを考える上で、もう一つ重要な視点がある。8月24日に開幕する「パラリンピック」だ。
「オリンピックとパラリンピックはセットであるものの、大会の意義自体は別だと思っています」
そう語るのは、日本ブラインドサッカー協会の松崎英吾専務理事兼事務局長だ。
東京2020大会が「共生社会」の実現を目指す上で、パラリンピックが担う役割はとりわけ大きい。女性蔑視発言で森喜朗組織委員長が辞任する事態が起こった日本は、果たしてどうすれば共生社会へ前進できるのか。松崎氏に話を聞いた。

オリ・パラがつくるエコシステムの中で

右端が松崎英吾氏。(Photo by AFLO SPORT)
──JOC(日本オリンピック委員会)傘下の競技団体に話を聞くと、協会を運営するためのお金、アスリートが手にする価値の両面で、オリンピックという存在の大きさを改めて感じました。その構造はパラリンピックも同じですか。
松崎 まずアスリート目線で言うと、東京大会を最後に引退するであろう選手もいます。うちの日本代表には40歳以上の選手もいますが、たとえ1年の延期でも、体力的に簡単なものではなかったと思います。だからこそ、最後にしっかり成果を示して終わりたいという思いが率直なところです。
協会目線で言うと、2つに分けられると思います。
前提として、オリンックやパラリンピックでメダルを獲ると評点化され、JOCやJPC(日本パラリンピック委員会)から次の4年間にもらえる補助金額が決まります。メダルにどれだけ食い込むかで、財源調達が数千万円単位で変わる。資金調達モデルとしてそういう生態系にいる団体にとって、オリンピックやパラリンピックの存在は非常に大きいです。
一方、我々はかねてから、独自の財源を開拓するのが望ましいと考えてきました。そうした意味で、オリンピックやパラリンピックの生態系で財源の多くを調達している組織とは考え方が異なるかもしれません。
──IOCから降りてくる補助金で活動費の50%近くを賄う国際競技連盟(IF)も少なくないと聞きます。でもパラリンピックの競技団体の多くは、そうではないのですか。
松崎 パラリンピックスポーツの中でも我々はかなりユニークな財源構成の組織だという思いがあります。協会で抱えている雇用者数や、行っている事業数を含め、「なんで日本ブラインドサッカー協会はそんなことをやっているのですか?」というところまで手を出しています。
その背景には、我々が設立されてから19年目の若いスポーツということがあります。当初はパラリンピック競技でもなかったので、その生態系で資金調達していくことは、描きにくかったのです。
──最初から自立して運営していかなければならなかった、と。
松崎 そうです。自分たちで資金調達しなければならず、「ブラインドサッカーが応援される価値は何か」「ブラインドサッカーが広がれば広がるほど、世の中は良くなるのか」という根本的なところと向き合わなければいけませんでした。
企業へ営業に行き断られることも多かった。例えば、「日本代表が世界選手権に出るのに遠征資金が足りないんです」とお願いしたら、「正直、あなたたちより頑張っている人が世の中にはいますよね?」と言われたこともあります。
それは本質で、我々の日本代表が活躍したら世の中は良くなるのか、当時は答えられませんでした。
今でこそ、障がい者スポーツのいろんな団体が「共生社会」を掲げています。でも、2000年代前半はトーンが異なりました。個人的な印象としては、“障がい者による障がい者のための障がい者スポーツ”というもの。自分たちを含め、ほとんどの団体は、トップアスリートの強化活動で手いっぱいだった印象です。
一方で私たちは、ブラインドサッカーが社会に提供できる価値はなんだろうと突き詰めました。そうして行き着いたのが「チームワーク」です。
選手たちが目隠しをしてプレーするなか、チームワークを発揮するには声の出し方を工夫する必要があり、同時に人に触れることの重要さを感じられます。それらをワークショップ形式にして企業研修に展開し、「スポ育」という子どもたち向けの教育プログラムにしました。
研修に参加した方は、我々が掲げる「混ざり合う社会」の価値を感じることができます。そういう原体験を通じ、「ブラインドサッカーを応援してください」というスタートラインにようやく立てると思います。

パラリンピックの開催の価値

──企業研修や教育プログラムを行うことで価値を提供でき、結果、財源を得られると。それでは、もしパラリンピックが中止になったとしても、金銭面の影響はそこまで大きくないですか。
松崎 我々のスポンサーシップ契約やパートナーシップ契約はパラリンピックに依存しきっているわけではなく、ブラインドサッカーが提供できる価値によって契約していただいていると考えています。
例えばあるパートナー企業さんとの契約には、その社員の皆さんに対し、我々の提供する研修を「年間○回提供する」という約束が含まれています。
我々のパートナーさんで、「パラリンピックでメダルを獲ることで生まれる露出に対してお金を払っている」という考え方は、一部に限られると思います。
正直に言って今、我々の協会運営は厳しいです。我々の強みは対面型の事業で、接触しながら体験し、会話を交わしたりハイタッチしたりして、チームワークのように「見えない状態でもこんなことに気づけるんだよ」という価値を提供することです。
その活動をできないことが、我々の経営を苦しめています。
それはコロナが理由ではあるけれど、コロナによってもたらされたオリパラの開催可否で経営が厳しくなっているのとは異なると思います。
──ここまで自国開催の意義についてどう感じてきましたか。
松崎 この4年間、ホーム開催のアドバンテージをものすごく実感しました。以前は企業に対し、非常に遠回りしないとブラインドサッカーの価値を伝えられなかったのが、この4年間は産業界を上げて「パラリンピックの成功なくしてオリンピックの成功はない」と言われるほど状況が変わりました。
パラリンピックスポーツが世の中に“聞く耳”を持っていただける立場になった状況は、2013、2014年頃まで雲泥の差があります。
逆に言えば、「あれだけ相手にされなかったのが、東京2020という巨大装置が1個あるだけで、世の中がこんなに変わるのか」とも感じます。テレビも新聞も「共生社会が大事」と言い、学校教育でもそう教えられていますよね。つまり規範として、「こうあるべきだ」と世の中全体で言われているということです。
でも、障がい者をどう見るかや、一緒に働いたときにどう接するかは、間違いなく心の問題が含まれます。「心のバリアフリー」とよく言われますが、心に遡及する前に、頭で「こうあるべき」と規範で押し付けているのが今の日本の障がい者を取り巻く環境のようにも感じています。
──悪い言い方をすると、“同調圧力”のように共生社会の大切さが唱えられているようにも感じられると。
松崎 そうですね。大事なのは東京パラリンピックが終わった後、規範が浸透し、本質的な意味で障がい者を差別することなく共生できる社会になることです。あくまで「障がい者」というのはさまざまなレッテルの中の一つで、マイノリティの問題はたくさんあります。LGBTQや男性女性問題、年齢に対する偏見もそうですよね。
それらがいずれもニュートラルなまなざしが増え、いろいろな人たちが自分の個性を持って生きやすい世の中になっていくために、パラリンピックがより利用されていくべきだと思います。

ロンドン大会は本当に「成功」だったのか

──2012年のロンドンパラリンピックでは史上初のチケット完売となり、大会が「成功」したといわれました。「成功」の定義はなんだろうと考えるのですが、閉幕後のイギリス社会でパラリンピックの好影響は見られたのですか。
松崎 大会前の盛り上がりで言えば、日本はロンドンを上回っていると思います。ロンドンで開幕約1年前に行われたブラインドサッカーの大会でも、お客さんはガラガラでした。
(2012年の)パラリンピックそのものは、史上最大の集客があった、成功だったと言われています。しかし、パラリンピックは、お客さんがたくさん入ったかどうかのみならず、社会運動にどうつながったかという視点で評価されるべきだと思います。
例えば障がい者の社会参画や、障がい者が就けている仕事の職域数、あるいは世の中の人たちが障がい者に持っているバイアスの指数がどう変わったか。それらが大会の「成功指標」になると思います。
ロンドンでは大会後、「81%問題」がありました。「大会前に比べ、開催後に障害者を取り巻く環境はどうなりましたか」と国が調査を行うと、世の中全体の81%が「とても良くなった」と答えています。
でも民間会社が障がい者を対象に同じような調査をしたら、59%が「変化がない」、22%が「悪化した」と答えました。つまり当事者たちの81%が「変わっていない」、もしくは「悪くなった」と感じているわけです。
世の中の人たちが規範の下、「共生社会が大事」「障がい者も活躍できる」とポジティブな像を描いた結果、世の中の人たちの障がい者に接する態度は変わらず、むしろ逆に差別しているという印象を当人たちに与えている。
この「81%現象」は、このままでは日本でも起こると思います。
パラリンピックを開催したからといって、それがおのずと障がい者に対するバイアスの抑制にはなりません。だからこそ大会後、我々のような当事者団体がギャップをどう埋めていけるか試されます。
──コロナ禍による医療体制の逼迫に加え、森元委員長の女性蔑視発言もあり、東京オリンピック・パラリンピックの開催には強い逆風が吹いています。こうした状況のなか、開催する意義をどう考えていますか。
松崎 オリンピックとパラリンピックは、開催がセットであるものの、その意義自体は別だと思っています。
パラリンピックは、共生社会というキーワードに集約されている通り、一朝一夕ではない心の問題も含んだ課題に対し、東京2020大会という巨大装置を用いることでいろんなものがドライブしていくと思います。
それには反作用も当然ありますが、大会がないよりあったほうが前に進められる。東京2020大会があることで、この2、3年間で、共生社会の前倒しが10年超、起こったと言えるのではないでしょうか。
パラリンピックの開催は、障がい者やマイノリティの人たちがパラリンピック以降にどのように生きるかに関し、よりよく貢献できると思います。だから健康面と情勢面が許せば、やったほうがいい。
逆にこんな時代だからこそ、パラリンピックの価値を相対的に高められると思います。
──こんな時代というのは?
松崎 さまざまな側面で二極化が進み、分断化されやすい世の中になっていますよね。だからこそ、パラリンピックがいい意味でアンチテーゼになれる気がします。
コロナによって世の中の状況が大きく変わっていくことで、自分の社会的なステイタスや所得、実際の生活にも大きな変化が生まれました。
この「社会状況の変化により、不利になる人が変わる」という問題は、障がい者を取り巻く課題に通じるものがあります。
「障がい者」と決めているのは世の中です。その身体的な特徴によって「社会で活躍しにくい状態」であること、これは別の問題で、どのような特徴が社会的に不利になるのかは社会の状況で決まる。
それをコロナで多くの人がそれを身を持って感じ、取り残されたり、分断されたりと感じることが生まれた。
誰かが活躍できていないとするならば、社会や組織のあり方や構造になにか原因があると考えてみる。障がいを取り巻くそのような状況の変化を促すムーブメントがパラリンピックです。
いま、コロナの影響でそのような動きが多発的に起こっているからこそ、パラリンピックの意義が再度見直されるべきだと思います。
これから先もコロナによるさまざまな影響を引きずっていくことを考えたとき、このような意義が、社会に対して「公正さとは何か」、「平等とは何だろうか」を示していくことができると思います。
パラリンピックや障がい者スポーツには、その使命を負っていけるだけの歴史もある。そういう気持ちを持った人たちが、たくさんいらっしゃる業界です。
【トップの流儀】加藤健人「始めなければ始まらない」

安心安全は望めるのか?

──開催に向けた現実的な視点として、パラリンピアンには持病を持っている選手もいると思いますが、医療体制を平時より整える必要はありますか。
松崎 ブラインドサッカー選手は、基礎疾患を持っている割合は相対的に高くはないと言えます。でもパラリンピックスポーツ全体を見渡すと、「基礎疾患を持っている人が多い競技」あるので、当然ながらふだんの医療体制より充実が図られる必要性はあると思います。JPCの医学委員長もそのような発信をされていました。
──その中で安全安心の大会は望めますか。
松崎 大前提として、オリンピックやパラリンピックをやることで社会に余計な責任や労力、コストを転嫁させてはいけないと思います。医療体制も経済体制も同じことが言えます。「コロナ禍で開催すると追加コストがかかるから、なんらかの予算が削られる」ということは避けるべきだと思います。
そうしたコストが転換されずにやれそうだという上で、医療体制を充実することができるのであれば、「大会を開催できる」ということだと思います。今は平時ではないので、誰かが負担を強いられて苦しい思いをしたり、誰かにコストを押し付けて我々の表舞台が設定されることがあってほしくない。
また、その意義や開催のシナリオについて、社会とコミュニケーションしていくことが必要だと思います。いまは理解が得られていないのは、適切な量と質でコミュニケーションがととれていないからだと思います。
そうではない状態を願って、今、いろんな人たちが頑張ってくださっていることと思います。
その上で大会が実施できるのであれば、胸を張って参加したい。そうでないのであれば、開催に慎重であるべきという意見も、理解できることです。
──選手もそう考えていますか。
松崎 両面あると思います。人間は誰しも複数の気持ちを抱いています。アスリートとしては挑戦したいし、そのために必死に練習しています。私も協会の責任者として、やりたいと思っています。