知の信頼を担保する「多様性」を実現すべく、Wikipediaが動き始めた

Wikipediaが、いま極めて重要な課題に取り組もうとしている。「全人類の知識の集積へ自由にアクセスできる」という使命を果たすべく、記事の編集に携わる人々の多様性を実現することで、均衡で公平なコンテクストに基く「知の信頼性」を担保しようと動き始めたのだ──。ジャーナリストのノアム・コーエンによるリポート。
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ALI BALIKCI/ANADOLU AGENCY/GETTY IMAGES

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事実とは“不屈”なものである。この不屈さは、2020年のWikipediaにとって極めて重要な財産として機能した。Wikipediaは昨年、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)や米大統領選挙に関する偽の情報を、断固として締め出す方針を打ち出したのである。

このときFacebookやYouTubeといったその他の世界的なデジタルプラットフォームは、自社のサーヴァー上にはびこる政治的・科学的に誤った情報への対応が遅く、得てして効果を出せていなかった。それと比べると、Wikipediaの姿勢は鮮やかな対照をなしていたと言っていい。

こうしてWikipediaは、「信頼の置ける、事実に基づく情報源」として評判に磨きをかけた。そして2021年のWikipediaは「正確さ」とは別の点で、知識の宝庫としての壮大なミッションを脅かす問いに直面している。事実を収集して提示する記事の編集者や管理者のコミュニティが、事実そのものと同様に揺るぎなく信頼できる存在になれるのか、という問いだ。

その背景には、ある懸念が存在している。編集に携わる人々の多様性をWikipediaが打ち出していかない限り、世界の知識を正確に集めるために必要なコンテクストや均衡性、公平さ、想像力を生み出せないのではないか、という点だ。

統一された行動規範の意味

300種類以上あるWikipediaを運営するウィキメディア財団は、この21年に統一された行動規範をまとめる意向を示している。行動規範には、侮辱や性的ハラスメント、個人情報の暴露など、各プロジェクト群の編集者の行動として容認できない行為を具体的に記し、これに対応する罰則規定も設ける。

新たなシステムは各Wikipediaのコンテンツ編集者や管理者の意見を取り入れながら進められており、一律に集約されていない現在の懲戒制度とは大きく異なる。統一された行動規範ができるだけでなく、ハラスメント行為を告発する人のプライヴァシー保護もよりしやすくなるとみられる。

この動きに賛同する人々は、今回の変更は多様性のある編集者のコミュニティづくりに欠かせないと考えている。現行のシステムでは、女性や非白人、クィアなどの“主流”ではないとみられて標的にされやすい集団の側が、加害者に対して声を上げることになる。これには報復のリスクもあり、過度な負担をかけているからだ。

ジェンダーの公正さに関するウィキメディア財団の報告には、不適切な言動への抗議に対してなされたハラスメントの実例が多数挙げられている。例えば、第三者のユーザーページに投稿されたポルノコンテンツの削除を依頼したところ、自身のユーザーページにポルノを投稿された、といった事例だ。

ハラスメントに対する訴えが公開されれば、加害者がコミュニティ内で人気の高い編集者の場合、訴えた側は最小限の懲罰でも受け入れざるをえない重圧が加わることもある。公正な扱いを阻まれ、ハラスメントの標的となったユーザーが身を引くケースは多い。

「究極のミッション」を実現するために

こうしたなかウィキメディア財団では、理事会の理事の定数を現在の10名から16名に増員し、外部の専門家の影響力を拡大する案も出ている。行動規範の件と合わせて財団のこうした動きにより、Wikipediaは内向きの姿勢を弱め、財団における外部専門家の声をより重視する方向へ舵を切ることになるだろう。

長く活動する編集者の一部からは、これまでWikipediaを動かしてきた草の根的なエネルギーが今回の変更によって抑えつけられはしないかとの不安も出ている。いわく、Wikipediaは社交クラブではなく、何かを成し遂げるためのプロジェクトであるがゆえに、個人間の考え方が衝突したり感情を傷つけたりもしやすいという。礼節を維持する点を過度に重視すれば活動の妨げになりかねず、熱意をそぎ、年次報告書のような調子で生気のない記事が増えてしまう──そんな懸念だ。

もちろん、逆の懸念もある。変わらなければ、Wikipediaはその究極のミッション、創設者のひとりであるジミー・ウェールズの言葉を借りれば「全人類の知識の集積へ自由にアクセスできる」という使命を果たせなくなる、というものだ。いまのままなら参加している編集者の属性は、富裕国に住みテクノロジーに明るい白人男性にかなり偏った状態が続くと考えられるからだ。

米上院議員選に立候補した女性やノーベル賞を受賞した女性科学者が、Wikipediaに独立した記事を立てるほどの「特筆性がない」と判断された事例を考えてみてほしい。あるいは、アフリカ系アメリカ社会にゆかりの深い重要な建物や人物にも言える。ニューヨークのハーレムにあるグレーター・ベテルAME教会や、衣装デザイナーのジュディ・ディアリングはその例で、ディアリングの記事はWikipedia内のコンテンツを増やす目的で開かれたイヴェント「エディタソン(edit-a-thon)」の企画でようやく書かれるに至った。

活力に満ちた都市としてのWikipedia

いずれの立場をとる人も、記事に書かれる内容が編集者を反映する点は、根本的には認識している。編集者コミュニティにとって運用方法の変更が必要かどうかで意見が異なるだけだ。

わたしは10年以上前、あるコラムのなかでWikipediaを活力に満ちた都市になぞらえ、ひとつのページに埋め込まれた多数のリンクから「思いもしない路地へとたどり着く」と表現したことがある。

記事内で言及された人物や場所に関する記事へのリンク。似たトピックのカテゴリーへのリンク。違う言語で書かれ、予期しないイラストが添えられた同じトピックの記事へのリンク──。これらには、もちろんそれぞれ特有のつながりがある。

果敢に冒険に挑戦する意欲ある人々がここに集まり、後世に残すものを築き、あらゆる方向に向けて拡大していくという意味で、この取り組み全体がさながら都市のようだったのだ。

個人的にはWikipediaへの訪問とは、言ってみれば遊民となって興味のわく「知の体系」を気の向くまま傷つくことなく渡り歩くことだった。一方で、主流から外れたグループに属する人たちにとって、Wikipediaには恐怖を覚える暗闇の路地や不快な気持ちにさせる人物が多数うごめいているのだという事実には、ほとんど目を向けていなかった。

「抗議」する力をもつために

そこで昨年になって、10年前には書くことのなかったWikipediaの“好ましからざる一角”を訪ねてみようと決めた。こうして見つけた記事のひとつが、植民地時代の米国の発明家で科学者でもあった黒人男性、ベンジャミン・バンカーの「知られざる欠陥」を暴くことに執念を燃やすページだった。

バンカー自身に関するページは別にあり、発明や測量、数学の分野で足跡を残した長い人生について記されている。それとは違い、「ベンジャミン・バンカーの神話」と題し、数千語に及ぶ長文に250の注釈をつけた「関連記事」と称するページだ。

この記事では、木製時計の製作やのちのワシントンD.C.になる土地の測量事業など、ベンジャミンの功績を示す記述を挙げたうえで、その功績が歴史的な記録で担保できるのか疑問を投げかける記述を引用していく。執筆以来、さまざまな人が記事の内容に疑問を呈し、あるユーザーが「それではアインシュタインの記事で『Einstein: The Incorrigible Plagiarist(アインシュタイン:徹底した剽窃者)』という書籍からの引用を参照していいのか」と問いかける場面もある。

しかしこの例を含め、内容が不明瞭で場合によっては攻撃的とみなされるこうした記事への抗議が、実を結ぶケースは非常に少ない。例外があるとすれば、経験を積んだ編集者や管理者が加わって抗議運動を立ち上げた場合くらいだろう。

トリニダード・トバゴ出身のイアン・ラムジョンは、2004年にWikipediaの編集に加わって以来、周縁化されたグループがWikipediaのページ上や編集活動にあたる人々のあいだでどう扱われているか、注意深く追ってきた。閲覧回数の多い記事における人種差別主義や性差別主義の追放という点では、前進してきているという。

「いまも問題がある事例は、より目につきにくいトピックに多いのです」と、ラムジョンは説明する。「記事を目にする人が少なければ、こうした行為をやめさせようとする動きもあまり出てこないでしょう。Wikipedia参加者の多くは衝突を避けるので、自分から行動を起こそうとはしない傾向にあります。十分なソーシャル・キャピタルが備わっている自信がない人もいるかもしれません。わたしの場合、自分ほど長く参加していない人ならとらないであろうリスクもとれます。むしろこうした闘いのストレスに耐えるのは、望むところでもあります」

将来的にWikipediaがハラスメントをより深刻に受け止められるようになれば、さらに多様性のある編集メンバーたちが、たとえ事実に基づいていても攻撃的なコンテンツには抗議していく力をもつのではないかと考えられる。

Wikipediaの負の世界を訪れるなかで、ナチスが手がけた児童書の詳細を記したページにも行き着いた。この記事には最近までネオナチのウェブサイトにリンクが貼られており、そこでは翻訳された英語版を購入できた。

あるユーザーは、記事内にユダヤ人を中傷する同書の記述が羅列され、それぞれ該当する章へのリンク(ある大学がアーカイヴとして作成した同書を紹介するページ)を貼ってあることに疑問を投げかけた。その上で、「必要なのはこの本の主張に対する信頼できる情報源であって、憎悪に満ちたプロパガンダ本のページそのものではないはず!」とコメントしている

苦痛を伴う挑戦

わたしの2009年のコラムでは、歴史家で都市を巡る偉大な思想家であるルイス・マンフォードの文章を引用した。マンフォードは、都市生活の根底には部外者への寛容さがあると考えていた人物である。

著書には次のような一節がある。「都市は定住の地になる以前から、人々が定期的にやってきては集う場所として興る。人を引きつける磁石は箱ができる前から存在し、交易に劣らず交流と精神への刺激をもって非居住者を引き寄せるこの力こそ、都市に不可欠な基準のひとつであり、その不可欠なダイナミズムの証であることは変わらない。これはより固定化されて内向きで、外から来る者に敵対的な村のあり方と対照をなす」

Wikipediaにとっては苦痛を伴う挑戦だろう。自由奔放に発展する時期を経て、より洗練されたものになるための何らかの規定は必要になる。

いわば公正住宅法と安全審査に相当する仕組みを備えて、特定の集団を記事から排除しないように、そして憎悪を含む言説がはびこらないようにしなければならない。レンガだけで都市を築けないように、健全で優れた百科事典を築くには事実だけでは足りないのだ。

ノアム・コーエン|NOAM COHEN
ジャーナリスト。『ニューヨーク・タイムズ』記者として初期のウィキペディアやツイッター、黎明期にあったビットコインやWikileaksなどについて取材。著書に『The Know-It-Alls: The Rise of Silicon Valley as a Political Powerhouse and Social Wrecking Ball』などがある。

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TEXT BY NOAM COHEN

TRANSLATION BY NORIKO ISHIGAKI