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10年前のとある新入社員が、社会に出て学んだ人生を動かすためのこと

3月が近づき、東京もすっかり気温が高くなってきました。この春から社会人となる方も多いと思い、今日はもうすぐ社会人になって10年、32歳のしがない中小企業の経営者がキャリアに関するエントリーを書いていきます。よろしければお付き合いください。

私は2011年の4月、新卒でとあるSIer(システムインテグレータ)に入社し、いわゆるSE職としてキャリアを開始しました。同期は550人、理系院生が7割近くを占める環境下で、文系学卒の私はいち早く危機感があり、期待と不安から新生活をスタートしました。花粉症の時期になると毎年思い出す、ちょっと憂鬱な春先です。


新卒時の私は、グローバルに活躍したいと豪語して入社前にTOEICを850に上げ、なんとか希望部署に配属されたものの仕事ができず、ミーティングの議事録すら8割が真っ赤に添削され、トレーナーにも上司にも怒られまくってるダメ社員でありました。なぜこんなに日本語に難があるのか、と言われるほど文章がかけず、おまけに文字が象形文字と言われるほどに汚く、いろんな方向でどうしようもない状態でした。

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(新入社員名鑑的なものに掲載のこちらの写真からもどうしようもないことがわかります)

配属後1ヶ月くらいして、初めて評価された仕事はお客さんとの飲み会幹事で、盛り上げたは良いものの、翌日は二日酔いで何も覚えておらず、それでも鬼のように厳しかった上司が、自身のSNSで前日を喜んでいたと聞き、心底嬉しかったことが記憶に残っています。至極お恥ずかしいエピソードながら、どんなことでも小さな成功?は若い人ほど糧になります。

スペック不足甚だしくも、本当に叱咤激励して育てていただき、基本的な仕事の仕方やプロとして働く心構え、マクロから資料の作り方やプレゼンスキルまで多くを体験を以て学ばせていただいた時期になります。

また、体力的に最も活動していた時期で、23時半の電車に飛び乗って帰宅し、24時から自宅でレアジョブという当時月5,800円ほどのオンライン英会話を受講し、そこから理解不能であった会計やシステムのことを調べ、翌日の9時半にまたオフィスで、おにぎりを摘みつつPCに向かう、といった生活を丸2年続けていました。マイナスからプラスに上げようと自分なりに必死な日々でした。


奇跡的に英語の勉強を続けられた理由は、大学4年次の最後に、ベンチャーのバイトで貯めたなけなしの50万円で3ヶ月留学したアメリカが忘れられず、いつかまたアメリカに絶対に行く、そのためにカタカナ片言英語をなんとかすると、いわば危機感とコンプレックス改善のためにやっていたようなものでした。

このことからも、何かをやりたいという思いは体験から来ることが多いので、ぜひ学生時代や若いうちに、無理をしてでもやりたいことに手を出すことを個人的にはお勧めします。

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海外に関して私のケースでお話しすると、大学に行けただけでも幸運な貧困な母子家庭であったのと、起業などできるような商才はないと認識していたこと、また地頭や学力が周囲と比べて秀でてるわけでもないので、進学などは向かない、と考えていたことから、企業からの駐在で行く以外にアメリカに行くのは、自分の人生では不可能、と考えており、これが逆に自らの生きる道を決める上で、一点集中としてプラスにワークしていたように思います。


しかし遅れながらその後分かったこととして、どうやら(その当時は)海外駐在できる人は全社員の数%で、また20代でアメリカは限りなく望み薄という事実で、この時はショックで、そんなことはないと蓋をして、さらに自分自身もフィジカルに寝込みました。

ただ、その5年後どういうわけにか奇跡が起こり、アメリカ駐在が決まります。忘れもしないとある土曜日の朝、事業部長から電話がかかってきて、「小野寺、ロサンゼルスに行けるか?」と嘘のような話が舞い込んできて、その後も色々大変なことがありましたが、2016年5月、27歳の時に単身でロサンゼルスに赴任することになりました。

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アメリカではうまく行ったことにも増して失敗や反省多く、また車の運転も下手で、赴任して1ヶ月でガソリンスタンドのポールに車体をぶつけて、めちゃめちゃ怒られたこともありました。修理業者には、いったいどうしたらあんな広い場所で車をぶつけることができるのか、と高速な英語で言われ、何も言い返せなかった記憶があります。

英語に関しても、ずっと日本で勉強してきたでDOYA! と乗り込むも、うっかりかかってきた間違い電話すら正しく聞き取ることができず、中西部に住むパートナー企業のおばちゃんに、頼むから英語うまい人に代えてくれないか、と赴任早々言われたりしておりました。


そんなアメリカ駐在は人生を大きく変えることになりましたが、送り出してくれた生涯の恩師である当時の事業部長がかけてくれた言葉を、5年近く経った今でもずっと覚えています。

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出発時に空港で、「人生は努力だけではどうしようもないこともある。そんな時に、外部の力が物事を動かす。それに出会うためには、努力し続けることが必要。機会が来るまで絶対に諦めるな」と、意訳するとそのようなことを言って送り出してくれました。


この言葉には多くの意味が詰まっており、おそらく私以上に、海外で働きたいと努力して来た方はごまんといる。その中で、一つ実現できたことはご縁や外部の力があってのこと。目標に対して遅かれ早かれ、機会が来るその瞬間まで諦めず、思いを持ち続けなくてはならない、ということと理解しています(数年反芻して、そのような意味かと最近理解しかけているところであります)。

ここから学ぶことは、どんなことがあっても諦めず、そしてできれば(己の精神安定のために)不平を言わない、ということ、これをジャック・マー的に言うと、「Never Complain, Never Give Up」という言葉になるのかと思います。

個人的にはその後も紆余曲折なキャリアで、アメリカで責任者として働かせていただいた後は一転インド案件へ、転職して東京に帰ってきたこと、30歳となり、再びアメリカを目指し独立して狂ったように働き投資家ビザを取って三度アメリカに戻ったことニューヨークでヴィーガン事業の立ち上げに奔走したこと、コロナ後、直近半年あまりは東京に戻ってきてヴィーガン事業をグロースさせてきたことなど、直近数年は休みもなく体感10年くらい、正直つらいこと95%でありますが、凡人が本当に達成したいことを実現するためには、ちょっとやそっとでへこたれちゃいかん、と思うとわりと納得ができたりします。

振り返ると、要所要所で周りの力に助けられ、なんとか次のステージに動く、という繰り返しをしていることに気づきます。


先程の上司の言葉に近いことで、「道を切り開くために、できるあらゆる努力を続ける。そうしているうちにチャンスが(遅かれ早かれ)舞い込んでくるので、それを逃さない。大きく動く時は、外的な力も働いて動く」。これが、私のこれまでの10年間の社会人生活の要約であります。


つまり、換言すると、人は掲げた目標に対して邁進することが必要であるが、無情にも一人では(その対象が大きければ尚)目指す場所には行けず、周りの人に助けられて実現していく(そして自分も周りの人を助けていく)、ということなのかと思います。

フリーランスから2019年の春に会社を始め、この1年半ほどは小さいながら組織を持ってチームで仕事をしてきました。それは、一人ではできることが限られており、自分が目指す、行きたい場所にみんなで行く選択をしているということでもあります。

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私自身、他の人と比較してどうこうという話ではないですが、大それたことできておらず、ビジネスパーソンとしても経営者としても未熟で道半ば、この先も長い道が続くと思いますが、Never Complain, Never Give Upの気持ちを忘れずに、次の10年も頑張る所存でいます。


アドバイスというと大変におこがましいながら、この10年の学びを以て、新社会人の方においては、始まりの状態など関係ないのだから、実現したいことに向けて周りや社会と協調しながら、日々目の前のことに全力で当たり続けることが大切なのではないかと思います。

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そして世の中には周りを思いやれる優しい方が多くいらっしゃいますが、自分自身の幸せも大切に、困った時は人に頼ることも大切と思います。必ず助けてくれる人はいるはずで、また自分も誰かの支えになれると良きで、必ずなれます。

直接お力になれることは少ないかもしれませんが、私も10年間、先輩たちから受けてきたものを、周りの人に還元することを意識して生きていきたいと思います。

お読みいただき、ありがとうございました。

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