2021/4/8

【水口貴文】会社は社員に成長の機会を提供する責任がある

Starbucks
1971年に米シアトルで産声を上げたスターバックスは、96年に日本に上陸。東京・銀座に1号店をオープンしてから今年で25年を迎える。現在、全国に1628店(2020年12月現在)を展開し、約4万人のパートナー(従業員)が働く。

水口貴文氏は、ルイ・ヴィトン ジャパンカンパニー副社長、ロエベ ジャパン カンパニー プレジデント&CEOを経て、2016年6月、スターバックス コーヒー ジャパンのCEOに就任。ブランドビジネスに造詣が深く、グローバルビジネスの経験も豊富だ。

外資系トップにふさわしく輝かしい経歴の持ち主だが、34歳のとき、傾きつつあった家業の靴製造卸の立て直しに奮闘し、他社に譲渡した経験も持つ。決して平坦な道のりではなかった水口氏の経営者としての軌跡を振り返る。(全7回)
水口貴文(みなぐち・たかふみ)/スターバックス コーヒー ジャパン CEO
1967年東京生まれ。89年上智大学法学部卒業。伊ボッコーニ大学でMBA取得。プライス ウォーターハウス コンサルティング、家業の靴製造卸会社を経て、2001年にルイ・ヴィトン ジャパンカンパニーに入社。10年ロエベ ジャパンカンパニープレジデント&CEO。14年にスターバックス コーヒー ジャパン入社、最高執行責任者(COO)に就任。16年6月から現職。
INDEX
  • 厳しい家業に使命感から飛び込む
  • コストダウンだけでは駄目
  • リストラで真っ先に名前が出る人
  • 利益を上げ、同時に人も成長する

厳しい家業に使命感から飛び込む

大学を卒業後、プライス ウォーターハウス コンサルティングに入社しました。
振り返ると、私は人生の選択の場面で、皆が選択するメジャーな方向を選んでいません。友人の多くが金融機関に就職する中、当時はあまり注目されていなかったコンサルティング会社に行きました。
その後大学院へ留学するにあたっても、多くの日本人留学生がいる米国ではなく欧州、それもイタリアというあまり人が選択しない場所を選びました。
そのイタリアの大学院を卒業し帰国すると、私は家業である靴製造卸の会社に入りました。1992年、私が25歳のときです。
会社は債務超過寸前で、非常に財務内容も悪かった。入社前から厳しい状況にあることは知っていました。
それでも入社したのは、使命感からかもしれません。たまたま用事があって会社に行ったとき、エレベーターである社員と乗り合わせました。父に何か話をしに行くところのようでした。
そのときのひどくつらそうな表情が今でも忘れられません。その顔を見たときに、自分は知らないふりはできないと思いました。

コストダウンだけでは駄目

父はものづくりが好きな人でした。人件費の上昇で、国内での靴づくりが難しくなっていくと、生産地をシンガポールや中国、ベトナムに移したりして靴を作り続けました。
それこそ会社をスタートしたばかりの頃は、いいものを作れば売れる時代でした。
でも、次第にそれだけでは売れなくなり、どう売るかを考えなければならなくなったときに、商品の売れ行きは鈍り、在庫がどんどん滞留していったのです。
(写真:1933bkk/iStock)
その頃には借金が膨れ上がっていました。製造業で、利益率が数%という会社で、数十億円もの借金があったら、とてもではないが回りません。
製造技術が高い会社で、高品質なものをきちんと作り、販売していると思っていましたが、今、振り返ると経営というものがまるで分かっていなかった。
私が当時、職人さんと一緒に飲みに出かけ、よく言っていたのは「ここの素材を変えて、なんとか200円安くならないの」といったことでした。
利益を出すにはコストダウンは大切ですが、どうやって付加価値をつけて売るか、そのために何をすべきか、という発想が必要だったのに、その視点が当時の私にはなかったのです。
この後、ブランディングを通して、どのように商品に付加価値をつけるか、またそのことがいかに作る人たちを守るか、ということを学ぶことになりますが、このときはその発想がなかったと思います。
会社には丸9年いました。私が入社してから生産の縮小や従業員の削減で一時的に黒字化しましたが、負債の金利負担が重く、最後の5年ぐらいは本当にきつかった。
私は、平日はデスクワーク、そしてその大部分は資金の工面、土日は百貨店の店頭で靴を販売してという生活で年中、休みなく働いていました。
それでも投げ出したいとは思いませんでした。死ぬほど大変だけど、目の前で起きていることにきちんと向き合い、そのときにできるベストを尽くすことを繰り返すしかないなと思って日々過ごしていました。

リストラで真っ先に名前が出る人

もっともつらかったのはリストラです。最終的に従業員の数はピーク時の5分の2にまで減りました。
当時常務をしていた私から社員に直接言い渡すことも少なくありませんでした。社員を会議室などに呼んで話します。まだ30歳すぎの私はその仕事が重荷で、毎朝会社に行く前に吐いていました。
いつも12月ぐらいに労使交渉が始まっていたので、今でも冬が嫌い。その頃のことを思い出してしまうからです。
私が誰に辞めてもらうか、社員の中から選ばなければいけない。