箱根駅伝・駒澤大学 大八木監督「男だろ!」への疑問の声が炎上した背景
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私は毎年箱根駅伝をテレビで必ず観る箱根ファンです。
長年観てきている大八木監督のキャラクターやパーソナリティーを理解していて、かつあまり気にしておらず、そんなに周りがとやかくいう問題ではないのではないかと思う一方で、確かに気になる人もいるのかもしれないと思いました。
これについては、言葉と用いる漢字のニュアンスの問題なのではと思っていて、テレビやマスコミでは「男」という漢字が使用されていましたが、私的に「漢」なのでは?と思ってたから特段気にならなかったのではと思いました。
この、「漢」は「男の中の男」という意味と辞書には最初に出てくるし多くの日本人はそういう意味しか知らず同じだという認識かもしれませんが、この語を使用する場合は、生物学上の雄個体であるというような意味よりは寧ろ、勇猛さ、大胆さ、潔さ、堅い信念の意味があり、この意味だと思っていたからです。
注目のコメント
「男だろ」への違和感は、多くの人が感じ、議論されていますね。職場などは、議論に至るまでなく、発言をもたらす視点や考え方も、「心地悪い」ものとして自浄される環境になりつつあります。少しずつ。
箱根駅伝での出来事、その根幹には、男性中心主義、エビデンスベースドではない過酷な指導、体罰や言葉を含む暴力、各種ハラスメントが存在し続けることを、やむなしとしてしまう構造的な課題があると思います。
スポーツだけは仕方ない。スポーツとはそういうもの。まさに、「スポーツ例外主義」は、みなが同じであるはずという前提に立った価値観。独特の高揚感もある価値観は、なかなか、負の部分を見えなくしてしまう。
監督やコーチだけでなく、スポーツのコミュニティ全体に関わる人たちの多様性を、意識的に担保すること。年齢、性別、SOGIはもちろん、経験、文化、専門領域の多様性により、みなが違うという前提に立ったスポーツへ。コロナ禍で、その価値が問われている今だからこそ、ぜひ。(すみません。誤ってコメントを消してしまったので再度投稿です。)
監督と生徒の問題はともかく、美談として取り上げるメディアは「有害なステレオタイプ」を再生産してしまう危険性があります。「男だろ」に答えて「男を見せた」という非常にわかりやすいステレオタイプ。しかし「男だからやれ」「男だから頑張れる」「勝つことで男を証明しろ」というのも「男性性の呪い」になります。男性性は脆いので、一回だけでなくずーっと証明し続けなければいけません。これが結構男性を苦しくしているのではないでしょうか?中継をみていて、その後の特集番組で称賛されているのをみていて
ずっとモヤモヤしていました。。。
そのモヤモヤの正体を自分の言葉と知識でははっきりさせられなかったのですが、こちらの記事を読んでそのモヤモヤの正体がはっきりしました。