2021/1/25

【中野信子】AIはヒトの脳を超えるのか?

NewsPicks Brand Design editor

高度に発達したAIと人間の脳に違いはあるのか?

折井 脳科学者である中野先生にまず伺いたいのですが、人間の脳を模倣し高度に発達したAIと、われわれの脳との間に、決定的な違いはあると思われますか?
中野 どの程度の性能が実現できるかにもよるでしょうが、仮に素過程(分解不可能な過程)やアーキテクチャーが一緒であれば、区別するのはかなり難しいと思います。
 ただAIがこのレベルに達するには、ハードウェア上の制約を乗り越えなければなりませんね。
折井 はい。人間の脳には860億もの神経細胞があり、それぞれがシナプスによって複雑なネットワークを構築しています。
 これを人間の脳容積と同じ1500g程度のスケールで実現するのは、いまの技術では限りなく不可能に近いといわざるを得ません。
 仮にデータセンターのような施設で再現するにしても、規模が大きくなればなるほどデータをやり取りするための遅延問題が指数関数的に増大してしまい、これも実現するのは容易ではありません。
中野 コンパクトなヒトの脳ですら、目や耳で集めた情報を視覚野や聴覚野に伝えるのに数百ミリ秒程度、さらに前頭葉で処理を終えるまでにトータルで1秒ぐらいの遅延が生じます。
 それが大規模なデータセンターならどれだけ大きな遅延につながるのか……想像がつきません。
折井 そうですね。それともうひとつ、いまのコンピューターが苦手とするのが、動画のような大容量データの時系列処理です。
 たとえば、ヒトの目と脳で行っているような動画処理を機械で行おうとすれば、膨大な計算リソースを用意しなければなりません。
中野 非常に興味深いお話ですね。おそらく折井さんも耳にされたことがあると思いますが、ヒトの脳には、目で見た光景を写真のように記憶する「フォトメモリー」という機能があります。
 この能力を持つ方はまれで、目で見たものをそのまま画像で覚えていられる。つまり、テストの際などに、頭のなかにある教科書を参照しながら解答用紙を埋めることができるようなもの。
折井 それはうらやましい(笑)。
中野 ええ(笑)。でも、この「フォトメモリー」に関しては、実はヒトよりもチンパンジーのほうが得意なのをご存じですか?
折井 そうなんですか?
中野 はい。ヒトも子どものうちは1/4がこの能力を持っているといわれているのですが、思春期以降、ほとんどがこの能力を失います。
 成長に伴って言語能力や物事を抽象化し、論理的に考える能力が発達すると、脳が「重い処理」を要するフォトメモリー能力を捨ててしまうのではないか、というのが最新の仮説です。
折井 なるほど。
中野 コンピューターがデータを処理するのと同じように、抽象化された情報は脳にかかる負荷を軽減します。処理が軽くなったぶん、記憶に定着しやすくなるというメリットもあるので、おそらくヒトの脳は、フォトメモリーよりも論理的思考を選ぶのだと思います。
 それに対しチンパンジーの脳は、ヒトの脳より物事を抽象化して捉えることが不得意です。また、彼らは長期にわたる計画を思い描いたり、順序立てて物事を考え、行動したりすることもできません。そのため、チンパンジーは成長してもフォトメモリーを失わないのだと考えられます。
 仮にもし、AIにフォトメモリー的な機能を実装できたら、いまよりも高い処理能力を獲得するかもしれません。しかしチンパンジーの脳に近づく代償として「忘れる」という機能が付加されることも覚悟しなければならないでしょうね。
折井 驚きました。実は最近、長瀬産業では、いかに適切にデータを「忘れるか」について研究をはじめたところなんです。
中野 そうなんですか!
折井 はい。データを効率よく記録するための研究の過程においては、どうしても情報を長期間保持できない不具合に出くわすことがあります。メモリーの基本機能であるデータの書き込み、読み出しが満足にできないわけですから、普通であれば不良品として排除されてしまいます。
 しかし忘れてしまうという特性をうまく制御できれば「忘れる機能を備えたメモリー」にもなり得るわけです。少ない計算リソースで膨大なデータを効率よく処理することにつながるのではないかと期待しています。
中野 それはおもしろい研究ですね。最近の脳機能の研究でも、いったん脳に刻んだ記憶を適度に忘れることが、結果的に高い学習効果をもたらすことが知られるようになりました。
 「忘れる」というマイナスに捉えられがちな特性が、AI時代にある種の利点として捉え直されるというのも、非常に興味深いお話だと思います。

寿命が延びれば、ヒトはもっと協調的になっていく

折井 ところで中野先生、世の中で存在が知られている「材料」の数は10の9乗(10億)ほどあるといわれています。その一方で、未知の「材料」はどれくらいあると思われますか?
中野 想像もつきません。どれくらいあるのですか?
折井 一説によると10の62乗もあるといわれているんです。
中野 そんなに!
折井 まさに人知を超える数字ですが、この膨大な可能性のなかから、いち早く有望な新素材を見つける手法として注目されているのが、AIを活用したマテリアルズ・インフォマティクス(MI)という手法です。
 実は私たちも2つのAIエンジンを組み合わせたMIプラットフォーム「TABRASA(タブラサ)」というサービスをIBMと共同開発し、2020年11月から提供をはじめました。
中野 化学系商社である長瀬産業さんがAIでビジネスをされるのは、ちょっと意外な感じもしますね。
折井 確かに「なぜ商社がAIを?」と思われるかもしれません。ですが、むしろ多くの素材メーカーと取引がある長瀬産業だからこそ、率先して取り組むべきビジネスだと自負しています。
 「TABRASA」の特徴は、機械学習によって新たな化学構造式を導き出す「アナリティクス機能」と、膨大な学術論文や各種実験データを構造化し、自然言語処理によって有用な知見を探り当てる「コグニティブ機能」の2つのAIエンジンを搭載している点にあります。
 これらの機能を組み合わせることによって、これまで専門の研究者チームが10年、20年の期間を費やしていた素材開発の期間を短縮し、コスト削減を実現することが可能になるんです。
中野 なるほど。AIが人間の研究者と共創するわけですね。
折井 そうです。AIが出した答えに研究者がインスパイアされたり、獲得したい機能から逆算して新素材の化学式を見つけたりするような使い方を想定しています。
 これ以外にも期待していることがあります。それは、「TABRASA」を多くの方に使っていただくことで、所属する組織や学会ごとに分断されてしまっている研究者同士の共創を促せるのではないかと考えているんです。
中野 所属する学会が異なると、近接する研究領域に携わっている者同士が、互いにどんな研究をしているかよく知らないということがあります。自然科学分野でもたびたび目にする光景です。
折井 そうなんです。本来イノベーションは協調と共創によって生まれるものなのに、現実はさまざまな制約や思い込みなどによって、必ずしも交流が進んでいません。
 だからこそ、メーカーや研究機関とライバル関係にはない中立的な立場の専門商社が、こうしたプラットフォームを提供する意義があると考えています。
中野 協調と共創という言葉でふと思ったのですが、今後、人体のメカニズムがさらに解明され、新たなテクノロジーによって生命医学が飛躍的に発展すると、ヒトはなかなか死ななくなります。
 それが何を意味するかは立場や考え方にもよりますが、少なくとも人間は、寿命という有限の時間を生きる宿命から、徐々に解放されていくことになるのは確かです。
 そうなると、これまでのように他者と敵対したり、だれかを蹴落としてのし上がったりするような、苛烈な競争に意味を感じなくなっていくのではないかと思うんです。
折井 なるほど。確かに寿命が大幅に延びれば、奪い合いを前提とした争いに意味はなくなっていきそうですね。
中野 ええ。競争に勝つというのは、限られた時間内で優位に立つには有効な戦略です。しかしテクノロジーが発達し、寿命という時間的な制約が弱まると、競争戦略よりも協調戦略を採るほうが得るものが多くなります。
 先ほど折井さんが協調や共創を念頭に置いていらっしゃるとお話しされていましたが、それを聞いて「TABRASA」の取り組みとも符合する気がしました。
折井 そういっていただけるのはとてもうれしいですね。なぜならこのシステムに「TABRASA」と名付けた意図とも重なるからです。
 TABRASAはラテン語の「tabula rasa(タブララーサ)」、つまり「何も書かれていない石板」から取りました。
 なぜこの名前を選んだのかといえば、さまざまな立場の研究者が利用することによって、空白の石板に研究データを刻みつけ、共有することによって知られざる知見の発見に役立てていただきたかったから。組織や学際を超えたイノベーションの起点にしたかったのです。
中野 まさに協調と共創なんですね。

AIの発展が人間性回復のきっかけになるかもしれない

折井 そもそもネアンデルタール人が滅び、私たちホモサピエンスが生き残れたのは、ネアンデルタール人よりも、他者と協力して社会を築く能力が高かったからだといわれていますね。
中野 はい。ホモサピエンスの前頭葉はネアンデルタール人よりも丸みを帯び、大きく発達しています。
 この発達した前頭葉がもたらしたのは、人間を人間たらしめている性質、つまり社会性や協調性を育むこと。事実、ヒトは集団行動が得意でしたし、獲得した知恵を多くの他者と共有することにもたけていました。
 だからこそネアンデルタール人にはできなかった社会や文明を築けたんです。
折井 協調こそが人間の本質であるにもかかわらず、人類誕生から20万年の間、私たちはその規模を拡大しながらさまざまなレベルで争いを繰り広げてきました。
 それがテクノロジーによって命の期限を大幅に延ばした結果、ヒトの本質に立ち返り、争いよりも協調を選ぶようになるというのは、非常にスリリングな展開です。
中野 同感です。みなさん耳にされたことがあると思いますが、AIが人間を支配するようになるという悲観論があります。しかし、私はこうした論調に賛成できません。
 AIは人間よりもはるかに論理的です。むしろ優れた能力を持つAIであれば、人間を支配するより「協調しましょう」と提案してくるはずです。
 なにしろAIは他者との協調を得意とする人間の脳を模して作られており、かつ人間のようなしがらみにとらわれ間違った選択をすることもありませんから。
折井 なるほど。
中野 ですからAIには、人間が不得意とすることを補う方向で、どんどん発展してほしいと願っています。
折井 これからAIはますます性能を向上させ、あらゆる場所で活用が進んでいくと思います。中野先生はAIに対してどのようなことを期待されますか?
中野 社会にはびこる無駄をなくすことに貢献してくれたら、いいですよね。人間に限らず、哺乳類は生きるためにミルクを与えてくれる存在に「媚び」を売るように進化しました。
 こうした性質が親子の絆や隣人愛というプラス面で作用することもあれば、我が身かわいさのあまり上司に迎合したり、身内びいきに走ったりといったマイナス面に作用することもあります。
 しかし、AIはそうした人間的な弱さや、判断を誤らせるバイアスやしがらみとは無縁です。社会通念と現実の間にギャップが生じたときに、私たちが正しい決断を下せるよう、アシストしてくれる存在であってほしいと願っています。
折井 優れたAIの実現は人間の尊厳を奪うより、むしろ人間を人間たらしめている社会性や協調性の回復につながるというお話は、AIの研究と社会実装に携わる人間としてとても勇気をいただけました。
中野 こちらこそ興味深いお話が聞けて楽しかったです。ありがとうございました。